川流れのあれやこれや

本人の琴線に触れたあれやこれやを長めに呟きます(大半アイマス)

”青春”よ、またいつの日か(『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想に添えて)

※「シン・エヴァンゲリオン劇場版」ネタバレありです。ご注意を。

 久しぶりすぎる投稿&アイマスじゃないことに気恥ずかしさを感じなくもないが、色んな人々が感想を述べているようなので、その混乱(?)に乗じて、私のエヴァのこれまでと、全てが終わった今の感情を書き記しておきたいなぁと考え、筆を取る次第である。誰の為でもない、自分を振り返る一人語りの文章である。キショい自分語り・長文・駄文は容赦されたし。

エヴァとの出会い

 書かなくてもいいような気はするが、とりあえず筆者とエヴァとの出会いを書いておく。

 私の生まれは1995年の事、丁度TVシリーズが放映されていた時だった。だからリアルタイムとしての人間ではない。生育環境からしても、いわゆる二次元的なものに囲まれることなく育ったため、一般的な成長曲線を描いて小学生の旅路を歩んでいた。

 転機が訪れたのは2005年の小学四年生の時、朝七時に偶然見かけた「交響詩篇エウレカセブン」を視聴したことがきっかけであった。それまでの夕方枠での一般的な「子どもに向けた」(と思っていた)アニメーションとは違う形でのスタイル、どこまでも試され、必死であがく主人公レントンとヒロインであり人ではないというエウレカの物語に、心を動かされたのである。(「エウレカセブン」という作品も喋りたいことはあるが、今は本筋からそれるのでこの程度にとどめておく。)

 そのエウレカを見届けた翌年四月、私は近所の書店にエウレカセブンが表紙を飾る本を見つける。それが、私の人生を決定的に変えてしまった『CONTINUE vol.27』(太田書店, 2006年)であった。その本には終了直後のエウレカの全話解説というとんでもない企画をひっさげていたのだが、その他の特集にひときわ目を引く特集があった。

「特集 エヴァンゲリオン

その特集は次のような文から始まっていた。

時に西暦2006年、いまの「新世紀エヴァンゲリオン」は、いったいどうなっているのか?1995年。当時、高校生だった僕は毎週水曜日には寄り道もせずにさっさと家に帰っていた。それは「新世紀エヴァンゲリオン(以下、エヴァ)」を見るためだった。

ダメなオタク少年であったとはいえ、少なからず一般的な青春時代を送っていた僕は『エヴァ』と90年代末という雰囲気があいまった奇跡とも思える時間を過ごしていたのだと思う。(後略)【文責:林幸夫】〔『CONTINUE vol.27』(太田書店, 2006年)より抜粋〕

 

  記事には後に判明するエヴァの名場面と共に、エヴァからの十年を振り返った文章がつづられていた。当時、エウレカ以上の衝撃を知らなかった私が、エウレカと似たようなテイストでありながら(それがエヴァを意識したものであったと知るのは後の話)見る者に衝撃を与える「エヴァ」という存在を認識するには十分なものであり、またエウレカのコミカライズが、漫画版のエヴァを連載してた「少年エース」上で行われていたことも相まって、エヴァTVシリーズ・旧劇場版、そして漫画版を見ることとなった。2006年の5月の事である。その数か月後、「エヴァンゲリオン再劇場版化」のニュースが入ってきたことを覚えている。これが私とエヴァとのファーストコンタクトであった。

TVシリーズ、旧劇場版で感じた”内省と拒絶”、新劇場版という”青春”

 先日、「カメラを止めるな!」の監督である上田慎一郎氏が一挙にエヴァンゲリオンシリーズを鑑賞し、シンエヴァに備える生放送実施していたため、(アーカイブではあるが)視聴させてもらった。エヴァを見た感想を誰かが語っているのを聞くのが久しぶりであったので、とても楽しませてもらい、自分が初見で見たエヴァの感想を思い出していた。

 当時の(あるいは今でもかもしれない)私が抱いたエヴァとの接点のはじまりは「他者と触れ合うことの怖さ」への共感であった。私自身人付き合いが得意な方ではなかったこともあるが、多くの人と同じように、他者への承認欲求や自身の存在理由についてシンジというキャラクターを通じて考えることが多かったことを記憶している。

 無論、設定が難解なこともあって何度も何度も見返し、人に説明するためにディアゴスティーニで出ていた週刊エヴァンゲリオンを何とかして購入し、設定について何度も考えこむことがあった。ただ、そういったエヴァンゲリオンの持つ難解な用語に対する考察という魅力よりも、エヴァを通じて、そしてシンジたちを通じて、自身を見つめ直すことの方がより印象に残っている。内省への回帰。それがエヴァに感じた感覚だった。

TVシリーズの最後の二話に然り、旧劇場版に然り、その感覚は深まっていく。

「何度打ちのめされようとも、無力感が己を苛んでも、人と触れ合うことで前に進んでいかなければならない。」

「触れ合うことが怖い、それによって傷つく事がさらに怖い」

この二律背反の感情、それを踏まえた上でやはり後者が勝ってしまう。旧劇場版のラストシーンのシンジとアスカのやり取りで感じた”分かり合えない・人への恐怖・拒絶”は、小学生であった私の心の中を強く突き刺すのに十分であった。

 新劇場版のスタートは、旧劇場版のもどかしさの消化と同時に、地続きの物語として、これからシンジと同い年になっていく思春期としての”青春”に間違いなく残る予感があった。2007年の序、2009年の破、2012年のQと小中高と成長していく自分と共にエヴァンゲリオンは成長を見せた。皆がエヴァの呪縛と感じる様なそれは、私にとってすれば認識するにはあまりに幼かった。

 私にとってのエヴァンゲリオンは”青春”であり、近所の親しい友人のような存在であった。無論、高校での心境の変化もあいまって、Q以降エヴァからは疎遠となってしまったものの、心のどこかであいつは元気にしているかなと思ったりする。すぐ終わるだろうと思っていた新劇場版の制作期間も伸びてミサトさんたちの方が今では年齢が近い。エヴァを熱心に語った中学生時代の友人ももう立派に社会人として頑張っている。思春期は遠くなりにけり、リアルタイム世代でなくても、そう感じるのに十分な期間だった。

「シンエヴァ」という卒業式の案内

 Qから十年近くの月日が流れた。私は高校を卒業し、大学を卒業し、そして大学院を修了しかけていた。拙いなりに社会の荒波をほんの少し経験して、社会人としての航海に出かけようとした矢先に、「シンエヴァ」という青春からの卒業式の案内が届く。公開日が確定したその日の夜、これまでのエヴァに関した思い出が一気に押し寄せ、それに苦笑しながらも、「これまでのケリをつける」ために、初日朝早く、行く末を見届けた。

 

 

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個人的に印象に残った「シン・エヴァ」の場面とダイジェスト

 パリ戦の後、明確に日常を生きる人間たちに焦点を当てることから本作は始まる。かつて旧劇場版で直面した「他人への拒絶」という冷たく、悲しい感覚。それとは全く対照的な光景の描写。多くの人が指摘している様にこれまでのエヴァには取り入れられなかった場面であり、時間をかけて描写されている。アヤナミレイ(仮称)と委員長のやり取りはポカ波を形成した破のリフレインとしても重要であり、またそれはどんなに苦しいことがあっても、どうにもならなくなっても前を向いて生きていこうという人間としての意志がより強く反映されている。(この10年間を取り巻く日本の出来事を意識したものなのはいうまでもないが)

 次に、Qに関する戸惑いについても、比較的誠実に説明されたことに安堵した。ニアサードの結果、ミサトの冷遇、アスカの怒り、ポカ波の不在。それを説明した上で、まわりまわってみんな「ニアサード」のことを忘れずに背負っている、前を向いて進んでいる。ニアサード以後の14年を経験した彼らにすれば、トウジのように「そうするほかなかった」というのかもしれないが、大人になるという「仕方のなさ」も、年月を経験した今なら理解できるという所。

 やがて絶望していたシンジも、第三村での生活、そしてなにより、感情や言葉を覚えて、感動を覚えたアヤナミとの別れによって、父親との対話に向けて動き出していきます。父親を怖がっていたシンジの歩み寄る成長を描く。失語症に陥りどうにもならなくなったシンジと、直前に修士論文で精神を持ち崩しかけた自分自身が重なる部分が多く、劇場では苦笑してしまった。…正直急速に成長しすぎだろうとは思うが、完結させなきゃいけないしね、ということで。

 対照的に、冬月が「希望という病に縋りつきすぎてしまった」というように、全てを投げ打ってアヤナミシリーズを生成し人類全てを巻き込んでまでユイに会うという希望に縋りついたゲンドウの狂気的欲情がとても鮮烈に記憶される。…そのあんまりにもあんまりなダメ親父ぶりに人間らしさを感じるのは旧劇場版を初めて見た時のゲンドウの異質さ・わからなさとは大きく変わっていた。あまりに人間らしい弱さ。自分にもそれがわかるまでに、自分が成長したのだろうか。

 本編のクライマックスとなる、シンジとゲンドウの対面。恐らく二十五年の歳月でこれ程面と向かったことはなかったし、最初で最後の対峙となるわけで。内容としてはゲンドウからみた自身の内省と心情の吐露が主軸で、一人の悲しい男の末路を描く。並行世界のどこを探しても愛すべき人は存在しない。だって、その人を亡くした、自分が弱くなったことを認めないから。授かった子どもを抱きとめることなく遠ざけたから。その子供の中に愛すべき人はいたのに。決してゲンドウの所業を美談ではなく断罪をもって描いている点がとても印象的。

 そして、シンジが各キャラクターを見送る段階に。TVシリーズや旧劇場版で使われたシーンのオマージュがいたるところに散りばめられていた。アスカとの問答は”拒絶”を植え付けた旧劇場版のラストシーンの赤い海と砂浜で行われる。中盤でのアスカの告白に答える形でシンジはアスカを見送る。お互いが成長して、納得して進んでいくところに、そこに思春期の面影を残さない寂寥感を感じる。

 次にカヲルとの別れ。生命の書に刻まれたとなれば幾度となくこの二人は出会いと別れを繰り返していて、そのたびにカヲルはシンジを救おうと必死だったという事実がつづられる。シンジを救う過程の中でカヲル自身も救われたかったという心情の吐露。リリンとアダムスを繋ぐ役割からの解放。どんどんとエヴァンゲリオンという劇の登場人物が退場していく。

 次にポカ波との別れ。人間として髪が伸びることを中盤で確認したからこそロングになっている綾波の姿を見たときは往年の綾波好きとしてはぐっとくるところだったが、それは置いておいて。旧劇場版でも使われたセル画を一枚ずつ取り除いていく手法。語られるのはアヤナミがシンジに示した別の可能性、自分自身で歩んでいく事ができるという希望。握手と笑顔で分かれていくシンジとレイの姿は漫画版を彷彿とさせるやさしさ。新世紀を作り出す、かつてTV版でシンジが問答したスタジオセットから、終わりへと向かっていく。

 そして全てのエヴァを見送るラストシーン。行われている行為としては旧劇場版とそれほど変わりはないものの、旧劇場版に漂っていたどうにもならない、拒絶と絶望からはまるで違った「やさしく、ありふれた」結末として新劇場版は幕を下ろした。

個人的に思うことをつらつらと

 ...とまあ、ここまで割と肯定的な意見を書いてきたわけだが、冷静に考えてみれば、庵野監督が鬱から這い上がって決着をつけるまでの過程を、エヴァンゲリオンという劇の中で自己表現しているだけともとれる。いや、TVシリーズ最終の二話からずっとですし、監督自身の心情の吐露という側面は最後まで変わらなかった。ある意味旧劇場版で提示された”拒絶”の感情に勝てていないところも含め、新劇場版発足時にこちら側が勝手に期待した部分に「落とし前をつけた」という表現が正しいだろう。

 「シン・エヴァンゲリオン劇場版」とは何だったのだろうか。「生きろ」「人と触れ合え」「現実だってある」様々なメッセージを受け取ったひともいる。逆にメッセージなんかないとも思える。

 自分の感覚としては「私はこの問題に決着を付けた、君らはどうするんだい」という「シン・ゴジラ」の一節に近いような感覚のメッセージだろうか。突き放しという感覚が強く残る旧劇と変わらない、しかし言い方は変化している。どことなく諭すかのような。よく言えば「王道的に」、悪く言えば「ありふれた」形での作品の決着を見せている。僕等二十代はこの作品をどうとらえるのだろうか。

 かつて病的とも思える旧劇を作り上げた監督からすれば、あまりにも丸くなった結末だなと思うところはある。その点を指摘する向きもあるであろうし、失望する所以であろう。作品のとげとげしさもまた、作品の魅力として存在することは事実だ。

  四半世紀しか生きていない若造が何を言うかとのご叱責も有るとは思うが、あえて記しておきたい。まずは、エヴァという作品に向き合った全ての人々にありがとうと。私にとってすればこの作品に落とし前を付けることができたという点で価値があるものだったし、それで十分だったと感じる。私はそういう感想だった。

 私にとっての「シン・エヴァ」は友人からの告別式だった。エヴァの呪縛と認識するにはあまりにも若かった私が、友人と思えたエヴァから自分に送られた近況報告とさよならのように受け取れた。どんな形であれ、作品が完結すればそれでよかったとも思う。エヴァという作品は、自分にとって自己内省の積み重ねで作り上げられてきたものだから。涙は出なかった。ただ、元気にやってると気付かされた安堵感と、もう会うことも無いであろう”青春”としての名残惜しさ、喪失感とでもいうのだろうか。そんな感情に包まれて劇場を出ていった。

おわりに ~あの日の思い出に手を振って~

 随分とありふれた感想を長々と喋ってしまった。大変申し訳ない。

 先述した『CONTINUE vol.27』のエヴァ特集は様々な派生ゲームをプレイした筆者が次のように、文を締めくくっている。

エヴァ』があなたにとってなんだったのか、僕に指摘することはできないけれど、しかし使徒の恐怖にさらされた”日常”の感覚だけは、確かに手元に残っていて、『エヴァ』のゲームはそのことを強烈に思い出させてくれる。

たぶん、この10年で『エヴァ』に描かれていた”日常”は、僕たち自身の”日常”へとすり替わったのだろう。昨日の次に今日が来て、今日の次に明日が来るように、『エヴァンゲリオン』は既に僕たちの身の回りの風景にすっかり溶け込んでいて、思い出そうとしなければ思い出せない”日常”になっている。きっとそういうことなんだと思う。【文責:林幸夫】〔『CONTINUE vol.27』(太田書店, 2006年)より抜粋〕

 これを読んだ当時は、リアルタイムで追うことができなかった悔しさが勝っていて、すぐにエヴァを視聴し、その地続きで新劇場版が始まった。それ以降エヴァの無い日々は考えられなくなった。どんなことをそれまでは考えていたのだろう。もう忘れてしまった。遠い過去の記憶である。

 この記事から15年、再びエヴァが過去になった日常に私は戻ることになった。当時、アニメーションのすばらしさを目の当たりにし、将来に夢をはせていた少年も、今では少し社会にでるのが遅れた一介の中途半端な青年である。現実に向かっていかなければならないってやってられねえなとも。

 しかし、社会人として世に出る直前という節目をもって、私は”青春”に別れを告げることができた。間に合ったとも言うべきか。この記事のようにいつの日かこのエヴァに囲まれていた生活が「思い出そうとしなければ思い出せない”日常”」に、「そんな時代もあったよねと」溶け込んでいてほしい、そう願っている。

 本作のラストにマリ、そしてシンジが手を伸ばし語りかける、「行こう!」の言葉。これから迎える社会の荒波に、「お手柔らかに」と願いつつ、この筆を置くことにする。

さようなら、エヴァンゲリオン。ご縁があれば、またいつか。