川流れのあれやこれや

本人の琴線に触れたあれやこれやを長めに呟きます(大半アイマス)

”青春”よ、またいつの日か(『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想に添えて)

※「シン・エヴァンゲリオン劇場版」ネタバレありです。ご注意を。

 久しぶりすぎる投稿&アイマスじゃないことに気恥ずかしさを感じなくもないが、色んな人々が感想を述べているようなので、その混乱(?)に乗じて、私のエヴァのこれまでと、全てが終わった今の感情を書き記しておきたいなぁと考え、筆を取る次第である。誰の為でもない、自分を振り返る一人語りの文章である。キショい自分語り・長文・駄文は容赦されたし。

エヴァとの出会い

 書かなくてもいいような気はするが、とりあえず筆者とエヴァとの出会いを書いておく。

 私の生まれは1995年の事、丁度TVシリーズが放映されていた時だった。だからリアルタイムとしての人間ではない。生育環境からしても、いわゆる二次元的なものに囲まれることなく育ったため、一般的な成長曲線を描いて小学生の旅路を歩んでいた。

 転機が訪れたのは2005年の小学四年生の時、朝七時に偶然見かけた「交響詩篇エウレカセブン」を視聴したことがきっかけであった。それまでの夕方枠での一般的な「子どもに向けた」(と思っていた)アニメーションとは違う形でのスタイル、どこまでも試され、必死であがく主人公レントンとヒロインであり人ではないというエウレカの物語に、心を動かされたのである。(「エウレカセブン」という作品も喋りたいことはあるが、今は本筋からそれるのでこの程度にとどめておく。)

 そのエウレカを見届けた翌年四月、私は近所の書店にエウレカセブンが表紙を飾る本を見つける。それが、私の人生を決定的に変えてしまった『CONTINUE vol.27』(太田書店, 2006年)であった。その本には終了直後のエウレカの全話解説というとんでもない企画をひっさげていたのだが、その他の特集にひときわ目を引く特集があった。

「特集 エヴァンゲリオン

その特集は次のような文から始まっていた。

時に西暦2006年、いまの「新世紀エヴァンゲリオン」は、いったいどうなっているのか?1995年。当時、高校生だった僕は毎週水曜日には寄り道もせずにさっさと家に帰っていた。それは「新世紀エヴァンゲリオン(以下、エヴァ)」を見るためだった。

ダメなオタク少年であったとはいえ、少なからず一般的な青春時代を送っていた僕は『エヴァ』と90年代末という雰囲気があいまった奇跡とも思える時間を過ごしていたのだと思う。(後略)【文責:林幸夫】〔『CONTINUE vol.27』(太田書店, 2006年)より抜粋〕

 

  記事には後に判明するエヴァの名場面と共に、エヴァからの十年を振り返った文章がつづられていた。当時、エウレカ以上の衝撃を知らなかった私が、エウレカと似たようなテイストでありながら(それがエヴァを意識したものであったと知るのは後の話)見る者に衝撃を与える「エヴァ」という存在を認識するには十分なものであり、またエウレカのコミカライズが、漫画版のエヴァを連載してた「少年エース」上で行われていたことも相まって、エヴァTVシリーズ・旧劇場版、そして漫画版を見ることとなった。2006年の5月の事である。その数か月後、「エヴァンゲリオン再劇場版化」のニュースが入ってきたことを覚えている。これが私とエヴァとのファーストコンタクトであった。

TVシリーズ、旧劇場版で感じた”内省と拒絶”、新劇場版という”青春”

 先日、「カメラを止めるな!」の監督である上田慎一郎氏が一挙にエヴァンゲリオンシリーズを鑑賞し、シンエヴァに備える生放送実施していたため、(アーカイブではあるが)視聴させてもらった。エヴァを見た感想を誰かが語っているのを聞くのが久しぶりであったので、とても楽しませてもらい、自分が初見で見たエヴァの感想を思い出していた。

 当時の(あるいは今でもかもしれない)私が抱いたエヴァとの接点のはじまりは「他者と触れ合うことの怖さ」への共感であった。私自身人付き合いが得意な方ではなかったこともあるが、多くの人と同じように、他者への承認欲求や自身の存在理由についてシンジというキャラクターを通じて考えることが多かったことを記憶している。

 無論、設定が難解なこともあって何度も何度も見返し、人に説明するためにディアゴスティーニで出ていた週刊エヴァンゲリオンを何とかして購入し、設定について何度も考えこむことがあった。ただ、そういったエヴァンゲリオンの持つ難解な用語に対する考察という魅力よりも、エヴァを通じて、そしてシンジたちを通じて、自身を見つめ直すことの方がより印象に残っている。内省への回帰。それがエヴァに感じた感覚だった。

TVシリーズの最後の二話に然り、旧劇場版に然り、その感覚は深まっていく。

「何度打ちのめされようとも、無力感が己を苛んでも、人と触れ合うことで前に進んでいかなければならない。」

「触れ合うことが怖い、それによって傷つく事がさらに怖い」

この二律背反の感情、それを踏まえた上でやはり後者が勝ってしまう。旧劇場版のラストシーンのシンジとアスカのやり取りで感じた”分かり合えない・人への恐怖・拒絶”は、小学生であった私の心の中を強く突き刺すのに十分であった。

 新劇場版のスタートは、旧劇場版のもどかしさの消化と同時に、地続きの物語として、これからシンジと同い年になっていく思春期としての”青春”に間違いなく残る予感があった。2007年の序、2009年の破、2012年のQと小中高と成長していく自分と共にエヴァンゲリオンは成長を見せた。皆がエヴァの呪縛と感じる様なそれは、私にとってすれば認識するにはあまりに幼かった。

 私にとってのエヴァンゲリオンは”青春”であり、近所の親しい友人のような存在であった。無論、高校での心境の変化もあいまって、Q以降エヴァからは疎遠となってしまったものの、心のどこかであいつは元気にしているかなと思ったりする。すぐ終わるだろうと思っていた新劇場版の制作期間も伸びてミサトさんたちの方が今では年齢が近い。エヴァを熱心に語った中学生時代の友人ももう立派に社会人として頑張っている。思春期は遠くなりにけり、リアルタイム世代でなくても、そう感じるのに十分な期間だった。

「シンエヴァ」という卒業式の案内

 Qから十年近くの月日が流れた。私は高校を卒業し、大学を卒業し、そして大学院を修了しかけていた。拙いなりに社会の荒波をほんの少し経験して、社会人としての航海に出かけようとした矢先に、「シンエヴァ」という青春からの卒業式の案内が届く。公開日が確定したその日の夜、これまでのエヴァに関した思い出が一気に押し寄せ、それに苦笑しながらも、「これまでのケリをつける」ために、初日朝早く、行く末を見届けた。

 

 

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個人的に印象に残った「シン・エヴァ」の場面とダイジェスト

 パリ戦の後、明確に日常を生きる人間たちに焦点を当てることから本作は始まる。かつて旧劇場版で直面した「他人への拒絶」という冷たく、悲しい感覚。それとは全く対照的な光景の描写。多くの人が指摘している様にこれまでのエヴァには取り入れられなかった場面であり、時間をかけて描写されている。アヤナミレイ(仮称)と委員長のやり取りはポカ波を形成した破のリフレインとしても重要であり、またそれはどんなに苦しいことがあっても、どうにもならなくなっても前を向いて生きていこうという人間としての意志がより強く反映されている。(この10年間を取り巻く日本の出来事を意識したものなのはいうまでもないが)

 次に、Qに関する戸惑いについても、比較的誠実に説明されたことに安堵した。ニアサードの結果、ミサトの冷遇、アスカの怒り、ポカ波の不在。それを説明した上で、まわりまわってみんな「ニアサード」のことを忘れずに背負っている、前を向いて進んでいる。ニアサード以後の14年を経験した彼らにすれば、トウジのように「そうするほかなかった」というのかもしれないが、大人になるという「仕方のなさ」も、年月を経験した今なら理解できるという所。

 やがて絶望していたシンジも、第三村での生活、そしてなにより、感情や言葉を覚えて、感動を覚えたアヤナミとの別れによって、父親との対話に向けて動き出していきます。父親を怖がっていたシンジの歩み寄る成長を描く。失語症に陥りどうにもならなくなったシンジと、直前に修士論文で精神を持ち崩しかけた自分自身が重なる部分が多く、劇場では苦笑してしまった。…正直急速に成長しすぎだろうとは思うが、完結させなきゃいけないしね、ということで。

 対照的に、冬月が「希望という病に縋りつきすぎてしまった」というように、全てを投げ打ってアヤナミシリーズを生成し人類全てを巻き込んでまでユイに会うという希望に縋りついたゲンドウの狂気的欲情がとても鮮烈に記憶される。…そのあんまりにもあんまりなダメ親父ぶりに人間らしさを感じるのは旧劇場版を初めて見た時のゲンドウの異質さ・わからなさとは大きく変わっていた。あまりに人間らしい弱さ。自分にもそれがわかるまでに、自分が成長したのだろうか。

 本編のクライマックスとなる、シンジとゲンドウの対面。恐らく二十五年の歳月でこれ程面と向かったことはなかったし、最初で最後の対峙となるわけで。内容としてはゲンドウからみた自身の内省と心情の吐露が主軸で、一人の悲しい男の末路を描く。並行世界のどこを探しても愛すべき人は存在しない。だって、その人を亡くした、自分が弱くなったことを認めないから。授かった子どもを抱きとめることなく遠ざけたから。その子供の中に愛すべき人はいたのに。決してゲンドウの所業を美談ではなく断罪をもって描いている点がとても印象的。

 そして、シンジが各キャラクターを見送る段階に。TVシリーズや旧劇場版で使われたシーンのオマージュがいたるところに散りばめられていた。アスカとの問答は”拒絶”を植え付けた旧劇場版のラストシーンの赤い海と砂浜で行われる。中盤でのアスカの告白に答える形でシンジはアスカを見送る。お互いが成長して、納得して進んでいくところに、そこに思春期の面影を残さない寂寥感を感じる。

 次にカヲルとの別れ。生命の書に刻まれたとなれば幾度となくこの二人は出会いと別れを繰り返していて、そのたびにカヲルはシンジを救おうと必死だったという事実がつづられる。シンジを救う過程の中でカヲル自身も救われたかったという心情の吐露。リリンとアダムスを繋ぐ役割からの解放。どんどんとエヴァンゲリオンという劇の登場人物が退場していく。

 次にポカ波との別れ。人間として髪が伸びることを中盤で確認したからこそロングになっている綾波の姿を見たときは往年の綾波好きとしてはぐっとくるところだったが、それは置いておいて。旧劇場版でも使われたセル画を一枚ずつ取り除いていく手法。語られるのはアヤナミがシンジに示した別の可能性、自分自身で歩んでいく事ができるという希望。握手と笑顔で分かれていくシンジとレイの姿は漫画版を彷彿とさせるやさしさ。新世紀を作り出す、かつてTV版でシンジが問答したスタジオセットから、終わりへと向かっていく。

 そして全てのエヴァを見送るラストシーン。行われている行為としては旧劇場版とそれほど変わりはないものの、旧劇場版に漂っていたどうにもならない、拒絶と絶望からはまるで違った「やさしく、ありふれた」結末として新劇場版は幕を下ろした。

個人的に思うことをつらつらと

 ...とまあ、ここまで割と肯定的な意見を書いてきたわけだが、冷静に考えてみれば、庵野監督が鬱から這い上がって決着をつけるまでの過程を、エヴァンゲリオンという劇の中で自己表現しているだけともとれる。いや、TVシリーズ最終の二話からずっとですし、監督自身の心情の吐露という側面は最後まで変わらなかった。ある意味旧劇場版で提示された”拒絶”の感情に勝てていないところも含め、新劇場版発足時にこちら側が勝手に期待した部分に「落とし前をつけた」という表現が正しいだろう。

 「シン・エヴァンゲリオン劇場版」とは何だったのだろうか。「生きろ」「人と触れ合え」「現実だってある」様々なメッセージを受け取ったひともいる。逆にメッセージなんかないとも思える。

 自分の感覚としては「私はこの問題に決着を付けた、君らはどうするんだい」という「シン・ゴジラ」の一節に近いような感覚のメッセージだろうか。突き放しという感覚が強く残る旧劇と変わらない、しかし言い方は変化している。どことなく諭すかのような。よく言えば「王道的に」、悪く言えば「ありふれた」形での作品の決着を見せている。僕等二十代はこの作品をどうとらえるのだろうか。

 かつて病的とも思える旧劇を作り上げた監督からすれば、あまりにも丸くなった結末だなと思うところはある。その点を指摘する向きもあるであろうし、失望する所以であろう。作品のとげとげしさもまた、作品の魅力として存在することは事実だ。

  四半世紀しか生きていない若造が何を言うかとのご叱責も有るとは思うが、あえて記しておきたい。まずは、エヴァという作品に向き合った全ての人々にありがとうと。私にとってすればこの作品に落とし前を付けることができたという点で価値があるものだったし、それで十分だったと感じる。私はそういう感想だった。

 私にとっての「シン・エヴァ」は友人からの告別式だった。エヴァの呪縛と認識するにはあまりにも若かった私が、友人と思えたエヴァから自分に送られた近況報告とさよならのように受け取れた。どんな形であれ、作品が完結すればそれでよかったとも思う。エヴァという作品は、自分にとって自己内省の積み重ねで作り上げられてきたものだから。涙は出なかった。ただ、元気にやってると気付かされた安堵感と、もう会うことも無いであろう”青春”としての名残惜しさ、喪失感とでもいうのだろうか。そんな感情に包まれて劇場を出ていった。

おわりに ~あの日の思い出に手を振って~

 随分とありふれた感想を長々と喋ってしまった。大変申し訳ない。

 先述した『CONTINUE vol.27』のエヴァ特集は様々な派生ゲームをプレイした筆者が次のように、文を締めくくっている。

エヴァ』があなたにとってなんだったのか、僕に指摘することはできないけれど、しかし使徒の恐怖にさらされた”日常”の感覚だけは、確かに手元に残っていて、『エヴァ』のゲームはそのことを強烈に思い出させてくれる。

たぶん、この10年で『エヴァ』に描かれていた”日常”は、僕たち自身の”日常”へとすり替わったのだろう。昨日の次に今日が来て、今日の次に明日が来るように、『エヴァンゲリオン』は既に僕たちの身の回りの風景にすっかり溶け込んでいて、思い出そうとしなければ思い出せない”日常”になっている。きっとそういうことなんだと思う。【文責:林幸夫】〔『CONTINUE vol.27』(太田書店, 2006年)より抜粋〕

 これを読んだ当時は、リアルタイムで追うことができなかった悔しさが勝っていて、すぐにエヴァを視聴し、その地続きで新劇場版が始まった。それ以降エヴァの無い日々は考えられなくなった。どんなことをそれまでは考えていたのだろう。もう忘れてしまった。遠い過去の記憶である。

 この記事から15年、再びエヴァが過去になった日常に私は戻ることになった。当時、アニメーションのすばらしさを目の当たりにし、将来に夢をはせていた少年も、今では少し社会にでるのが遅れた一介の中途半端な青年である。現実に向かっていかなければならないってやってられねえなとも。

 しかし、社会人として世に出る直前という節目をもって、私は”青春”に別れを告げることができた。間に合ったとも言うべきか。この記事のようにいつの日かこのエヴァに囲まれていた生活が「思い出そうとしなければ思い出せない”日常”」に、「そんな時代もあったよねと」溶け込んでいてほしい、そう願っている。

 本作のラストにマリ、そしてシンジが手を伸ばし語りかける、「行こう!」の言葉。これから迎える社会の荒波に、「お手柔らかに」と願いつつ、この筆を置くことにする。

さようなら、エヴァンゲリオン。ご縁があれば、またいつか。

TCを振り返って~あるあずさPの総括~

はじめに

こんにちは。前回TCで一本といったので有言実行といった具合。

何はともあれ、Pの皆さま、The@ter Challenge(以下、TC)お疲れさまでした。

 あまりに長い、一か月間がようやく終わりました。私自身も自主的に動いていたので、身も心もボロボロだったりします。おのれ、副業

 さて、ご存知の方も多いように(知らん)私は三浦あずさの担当として今回のTCを戦い抜きました。自分の他の担当である、松田亜利沙、佐竹美奈子高山紗代子の各位には最大限の謝罪と敬意を表して挑んだ次第です。しかし、結果としては「御伽の国」【旅人】役として(暫定ではありますが)三位となり、残念ながら役を獲得することはできませんでした。今こうして記事を書いている瞬間も、あずささんに役を与えてやれなかった悔しさ、申し訳なさが胸に去来しています。今回の記事は、この悔しさを忘れないためのある種、備忘録に近いものがあります。いつか開催されるであろうTD、TFといったキャスティング投票企画の礎、と言うと大げさかもしれませんが、少なくとも今回の反省が次回の戦略の糧となることを祈っています。

 

1.役選択とマーケティング戦略 ~企画決定から役発表直後~

 The@ter Challengeの開催決定時、私はそれが発表された横須賀芸術劇場の5階席にいました。会場は大いに盛り上がり、意気揚々としていたPであふれかえっていました。何より765proAllStars(以下、AS)の参戦により状況が一転したことも盛り上がった一因でした。

 さて、私の最初の心境としては、「大変で、厳しい戦いになりそうだなぁ」といった具合でした。前回のThe@ter Boost(以下、TB)の時は、受動的な参加に留まり、結果として大激戦となった「三姉妹カフェ」の次女役、静香vs美奈子で歯がゆい思いをしていたため、次回開催時にはなるべく自主的に動こうと考えていました。しかし、ASの参戦となると状況は一転します。いかんせん、八年目に差し掛かっている自分のアイマス史を考えれば、三浦あずささんを見過ごすことはできません。どうしても彼女に役を取って欲しい。私の担当するシアター組の面々は過去の投票企画(TA、TB)で役を一度獲得している面もあり、今回は三浦あずさを中心にどんな役であってもアピールしていこう、と考えました。この後すぐに、三浦あずさdiscordの担当さんに声をかけてもらったことも、覚悟を決める一因でした。

 自身の卒業論文の執筆が終盤に差し掛かった12月12日、ミリシタ2018年もサンキュー生配信がありました。前回のTBも12月から1月にかけての開催だったので、この生放送のタイミングで役発表は確実であろうと踏んでいました。(実際にそうだったわけですが)そして、実際に発表された役柄がこんな形に。

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 キャスティング投票企画の鉄則として「早期に狙いの役を定め、マーケティングを練る」ことがあります。無論、生放送やSNSの反応を見極めなければならないため、慎重な検討が求められます。そのため、わたしとしては、ある程度あずさPが集まるdiscordの情勢を見つつ、狙いの役について意見をすり合わせる形にしました。discordと聞くと、このTCの前半では「代表者ぶるな」「勝手に役を決めるな」といったように反対意見が多数出ていました。このようなリスクも考えると、即断即決といった状況ではないことを重々理解した上で、説得力のある役柄でもって考えていこう、という狙いで私は役柄を思案しました。

 (問題とされるdiscordの是非ですが、正直なところ、出足が揃うことを必要としているため、説得力のあるダイレクトマーケティング(以下、ダイマ)によって反響が広がれば、その流れに乗ることも考えられます。無論、問題とされたようにdiscord内で独断で決めてはならないという批判があるのはごもっともですが、批判を行う人々が、主体的にこの役がいいと主張していたか否かを、きちんと見極めなければなりません。)

 さて、あずささんに適合する役柄を検討するわけですが、最初に候補として挙がったのは「サスペンスホラー」における女主人or先生でした。年長としての気品あふれるたたずまいと、「隣に…」といった彼女の代表曲のイメージも相まって、候補として挙がるのは必然の事でした。しかし、ここで検討されたのは適合か否か、だけではありませんでした。競争役として誰が候補に上がるのか、その役を推薦していくうえでマーケティングとしてうまくいく材料がその時点であるか、といったことも検討事項でした。マーケティングとしては、主にTwitter等のハッシュタグや、何を標榜して行っていくかといったものです。検討した当時としては、候補に挙がっていた役柄では効果的なマーケティング材料が見つかっていませんでした。加えて先生役には前回役を獲得した歌織さんが来ると予測され、ミリシタのプレイユーザー層を考えれば分が悪いのは明らかでした。

 そこで発案があったのが「御伽の国」の旅人役でした。SNSでの反応を見ると意外な役選、ネタ枠といった認識であったようですが、彼女の持つ特徴である「方向音痴」といった側面、アニマスのあずさ回で見える「周りを幸運に巻き込んでいく」様子といった具合に今回の旅人のイメージと合致していたというのが強みとしてありました。そして、Twitter用のハッシュタグを検討していた際に、不意に自分のランダムのプレイリストから「そして僕らは旅にでる」が流れたのをきっかけに、私は「#そしてあずさは旅にでる」という提案をdiscord内にしました。これが、うまくあずさPの中でうまくイメージに合致したため、ハッシュタグとして採用の運びとなっていきました。競争相手として想定されたのは、不思議といった側面を通じて攻めるであろう麗花さんでした。しかし、他に想定される競争相手が考えられないことや、ここまでくると誰に喧嘩をふっかけるかといった具合でしたので、ここでも覚悟を決めることとなったわけです。このような偶然の産物も相まって最初の提案として「旅人」役を私としては提案していこうという形となりました。

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開始当初のダイマ資料

2.風雲急を告げるガチャ更新と戦略 ~開始直後から2018年内まで~

 麗花さんが対立候補として想定された旅人界隈でしたが、蓋を開けてみると昴とロコが加わり、四人の争いとなっていきました。当時の懸念事項として思い浮かぶのは、票割れでした。開場したコンベンションセンターでは、うれしいことに旅人に対する受入の姿勢が多くありました。しかしながら、先程挙げた「先生」役に投票するPの人々もいました。各々の意見なので無理強いはできません。悔やむべき点が同僚Pにあるとすれば、票を固めようとしても固めきれなかった面も多少はありました。しかし、概ね意見の集約としてまとまった点では比較的穏当なスタートだったと考えられます。そして、開始の号砲ともいえるガチャ更新をもって、長い長い約一か月にも及ぶTCのスタートが切られたのです。

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 その初手のガチャ更新、まさかの三浦あずさ恒常二枚目、新SSR直撃という事態でした。有償ガチャに投票券100枚付きというのも十分衝撃的でしたが、何分このタイミングでの新SSRに界隈は盛り上がりました。すぐに私はこのお祭りムードを投票に持ち込むため早急に一斉投票への告知に動きだしました。

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実際の告知画像

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12月19日 21時時点

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12月19日 22時時点


 結果としてその日の9:02pmに一斉投票が行われ、見事投票初日に一位を取ることができました。風雲急を告げるこの三浦あずさガチャ更新は界隈の士気向上に一役買い、滑り出しは順調であったように見えます。しかし、今こうして戦況を振り返ってみると、このタイミングでのガチャ更新は将棋でいう悪手に少しばかりなってしまったのかなと思います。正直、是ばかしはしょうがないかなとは思う次第ではありますが、改めてその理由を考えてみます。

 ①結果として先頭を「走らされてしまった」誘因となった

 TCの戦況に張り付いていた方であればお分かりかと思いますが、前半戦にあたる2018年内のランキング状況を見ると、AS勢が上位を占めていたように窺えます。この結果を見て、順調な滑り出しだと考えるPも多かったと思います。しかしながら、この時点ではまだ前半戦。長期的展望を考えれば首位にいるメリットは驚くほど少ないのです。(その理由としては、以下に挙げるような界隈の”弛緩”であったり、下位からのジャンプアップがエンターテイメントとして”投票映え”し、周囲からの応援票が入りやすい等。この時期は、票数がそれほど配られておらず、新規ガチャに対する応援は入りずらい状況にあり、あずさ界隈としてはうまくこの状況を使い切れなかったと思います。)

 結果としてAS組の多数が年明けにシアター組にまくられる事例が多数見受けられ、例に漏れずあずさ陣営も麗花陣営に年内にまくられる形となりました。

 ②あずさ陣営が想定を超える勢いで「油断した」

 私としての想定外は、むしろこちらの方でした。こういった投票企画に慣れていないのはAS勢として認識していましたが、自分の想定以上にあずさ陣営の気が緩んでいたように当時は感じました。コンベンションセンターの書き込みには、「あずさは大丈夫そうだから、他の子に投票してもいい?」といったものも見られ、この一斉投票をきっかけに、空気が弛緩する様子が見えました。一時的な気の弛緩であれば気にも留めないのですが、結果としてまくられたときに想定以上の心理的ダメージを食らう恐れがあったため、今回の突発的な一斉投票はそういった懸念を産む形となったのです。そして、基本的に先手を打つのは、原則選挙企画では悪手であるため戦略の練り直しも求められました。この点でも計画が狂った感はありました。

 このような展開がある中で、次の一手として考えていたのは、年始による一斉投票でした。次の一斉投票の狙いとしては、あずさ界隈の気を引き締める点と継続的な投票機会を作ることが念頭にありました。なぜ、年始に企画を据えたのか、ですがあずさ役を務めるたかはし智秋さんの挨拶に御参パイなるものがありました。このご挨拶と新年の初詣にかけて、マーケティングができると考えていたからです。一斉投票には何かしらかこつけないと無駄撃ちになる可能性があるため、無理のないと思われる範囲での戦略としてわたしは妥当であると判断していました。そして、周りを巻き込んだ形で”お賽銭”(=票)が投げ込まれることを多少なりとも想定したものでもありました。

 上記のような状況下であったため、この時期の私は、イベントを走ったことのないPに向けての走り方伝授であったり、海外のPにも参加してもらえるように英語での告知文書、ならびにTCへの参加方法を製作しました。もともとは海外のPから参加方法を教えてほしいとの依頼があったため偶発的に作ったものですが、私としては、まがいなりにも需要に応えられたのかな、とは思います。(無論、ここら辺は公式から英文のフォローが欲しかったところではありますが…)

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TC開始前の票獲得方法画像

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走り方講座の表紙

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実際の制作画像(英語がガバガバ)

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英語での告知画像



 このような形で年内を麗花に続く二位で終え、この時点ではわたしの中では概ね予測通りといったところでした。新年早々に旅人界隈での一斉投票が企画されるのが見えていたので、三が日が一つの天王山といった情勢となり、冬コミが終わっても胃の痛い状況が続くこととなりました。

3.三が日の天王山と界隈としての”誤算” ~年始からRtfイベ開始まで~

 年が明け、一斉投票の気運が高まっていた元日、初手となる昴の一斉投票がありました。この時点で多少なりともまくられることは想定内だったので、どこまで票数が伸びるかがポイントとなりました。蓋を開けてみると、おおよそ20万票が入っていたと記憶しています。この伸びは自分としては想像を超えたものでした。というのも元旦の一斉投票というのはPとしては様々な年末イベントが立て続けに発生していたため、元日の昼12時という投票設定は少しばかり無理があるのではと考えていたからです。しかし、昴Pの団結力とも言うべきなのでしょうか、予想を大きく超える伸びを見せたのです。どうしてこのような伸びを見せたのかについては昴界隈に話を聞いて見なくてはならないところですが、個人的な見解は後述することとします。

 しかしながら、こちらもまだ一斉投票を残していたため、あまりたじろぐことはありませんでした。今はただ「御参パイ」企画を成功させるだけであり、元日も情報の伝達に重きを置いていました。そしてカウンターとなる一斉投票が1月2日、9:02pmに行われることとなりました。

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1月3日 21時時点

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1月3日 22時時点

 蓋を開けてみると、おおよそ五万票強の伸びにとどまり一時的に麗花を抜く程にとどまりました。想定以上に票が伸びなかった、と受け取られることになりました。この結果は私としては想定のやや下といった具合でした。しかし、懸念していた事態がこの結果から表面化してしまいました。この一斉投票からあずさ界隈から見切りをつけてしまったP達が発生してしまい、結果としてあずさ界隈の士気が下がってしまう結果となってしまいました。無論ガチャ更新による追い風によって流れに乗ったと陣営としては考えていましたが、今、戦況を振り返ると、この時の自陣営のPの数の誤読と投票数の読み違いが結果として如実に表れてしまったと言えます。結果として、この時点で旅人は昴と麗花の二強状態となり一気に苦境に立たされることとなりました。

4.ゲリラ的ダイマ作戦と終戦 ~Rtfイベント開始から終戦まで~

 しかし、あずさ界隈は、私を含め、諦めてはいませんでした。早急に画像を制作します。

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直後に制作した画像

 今回のTCの特徴として挙げられるのは、前回のTBよりも投票可能枚数の上限が大きく増えたことにあります。そのため前回のTBで見られた10万票差の大逆転以上の可能性が残っていたのです。そのため、今必要なのは自陣営の維持と票の獲得に向けた広報の強化でした。そのため、私としてもよりダイマをブラッシュアップしたものを制作し、投票先を迷っている人々に向けた告知を行っていきました。戦闘態勢を崩してはならないことが何よりも大事であり、必死になって三浦あずさを売り込んでいました。

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ダイマ資料

 私としても、何度もTwitterで発言したように彼女にしか表すことのできない旅人としてのシンクロニシティと御伽話特有のコミカルさとシリアスさを叶えられるキャスティングであると自負しておりました。それは他の役に決して負けることのない意義のあるキャスティングであると考えていました。そして1/13の一斉投票で何としても二強に肉薄し、少しでも可能性を残すことに全力を注いだのです。

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告知画像

 そして、1/13の一斉投票の日を迎えます。ここで食い込まなくてはと、私自身も必死になって当日も投票を呼び掛けていました。

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1月13日 21時時点

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1月13日 21時32分時点

 しかし、私達の努力とは裏腹に一斉投票は二万票の伸びにとどまりました。結果として、麗花・昴の二強に追いつくことができず、そのまま終戦を迎えることとなったのです。最終日までに三つ巴に持ち込む最後の願いは儚くも消えていったのです。

 なぜ、この結果が決定的となったのか。それは、浮動票を持つPの心境を読み取ればわかるかと思います。先述したTBの美奈子vs静香や、今回のTCにおける千鶴vs伊織の票数が桁違いとなったのは、最終日まで票を持っていたPが実質の決選投票に加担した結果であると自分は考えています。その結果からすれば(無論自分のTLでも散見されましたが)、「(最終日までに)二位以内であれば投票する」といったように、最終日に接戦にまでもつれ込まないと浮動票は獲得できません。先述したように私が旅人役で推していく事を決めたのも、麗花以外に想定できる相手があまりいなかった点も含めてでした。しかし、結果として昴が台頭し二強状態に持ち込むどころか、突き放されてしまったというのが結果でした。

 今振り返ってもあずさ陣営のTCにおける戦略は間違っていなかったと思います。しかし、結果として役を獲得することはできなかった。まさしく完敗といって差し支えないと思います。

5.完敗の要因と他陣営の戦略 ~今後の反省として~

 では、なぜ完敗してしまったのかを自分なりに分析してみたいと思います。

(あくまで主観的な分析を多分に含んでいます。ご了承を。)

  • 選挙活動に積極的なPの慢性的な不足

 あずさ陣営と他の陣営を比べてみると、一目瞭然ともいえる状況なのがTwitterで展開されているダイマであったり企画告知の数でした。特に昴陣営では私のTL上でも応援イラストや告知が絶え間なく流れていた印象でした。この点では積極的に広報活動をしているPが圧倒的に多かったのかな、と見て取れます。特筆すべきは、イラストにおける統率力の高さにあると考えています。無論、昴単体で描かれる絵師さんも多かったのですが、早期に固めたイメージである「すばフキン」によって想像が強固なものとなり、票を握る有権者に視覚的なイメージをもってダイレクトに伝わっていたのではないかと推測されます。無論、昴としては過去の上位報酬がBlooming Starであったり、過去の選挙企画で役を獲得していない背景事情があったため、一概に昴の台頭を想定していなかったわけではありません。しかし今回のTCにおける選挙活動であったりイラスト支援の流布の状況を考えると、この躍進は必然的であると言えます。

 他方、麗花陣営は表立った活動は昴陣営に比べるとやや少ない印象でした。しかしながら選挙期間におけるホームページ作成やイラスト支援、何より周囲を巻き込んだ企画によって別の世界で戦っているような印象を受けました。一周年イベで他の三人を圧倒的に超えるボーダーを誇った麗花陣営の自力の強さ、プレイユーザーの多さが光ったと言えるかと思います。その点、あずさ陣営としてはイラスト支援をいただき、各々が示し合わせる形でマイペースな活動を行っていましたが、結果としては両者の差としてこのように現れる結末になったのだと推察します。

  • ミリシタにおける、Pの「三浦あずさ」に対する認識不足

 これは、選挙企画開始当初から感じていたのですが、あずささんの旅人に対するイメージが、「不思議」というキーワードから盲目的に想像される麗花や昴の旅人のイメージに負けてしまっていた、と感じました。これは、投票する当人の大半が、「ミリシタからアイマスを始めたP」であったことも遠因の一つだと考えられます。私達ASPはゲームであったりアニメであったりと様々な形で三浦あずさという人物について触れる機会がありました。しかし、ミリシタに限って見れば、その活躍の回数は麗花さんに比べれば非常に少ないでしょう(これは出番をよこせ、という主張ではなく、事実としての指摘です。あしからず)。そのため、新規SSRの登場によってTLは湧いたものの、結果にうまく結びつかなかったのだと推察できます。

 これは、アニマス以前のネタがミリシタPに通じない点でも、その端緒として現れていて、Twitterハッシュタグとしての「#そしてあずさは旅にでる」がAS界隈ではそれなりの好評をいただいた(と受け取っている)のが、ミリオンの界隈ではバズらなかったという点でも感じていました。その中で、「不思議な旅人」という文言と持ち前の自力で終始戦況を開拓した麗花陣営と、「すばフキン」というイメージのもと、旅人に対するある種の妄想を武器に、戦いを繰り広げた昴陣営が、ミリシタユーザーの心をつかんだのは言うまでもないことでしょう。AS勢の中でもこの「土壌の違い」をうまく乗り切った陣営が最後まで接戦を演じることができた、と推察でき、あずさ陣営としては乗り越えることができなかった、だからこそ結果として競り負けてしまったのではないかと思います。

  • 周囲を巻き込んだ企画が不完全燃焼であった

 私自身、何度も言うように各企画としてはあずさ陣営も悪くなく、他の陣営と同様のものでありそこに負ける要素はなかった、と考えています。しかし、多くの方が指摘している様に、TC全体を通じて、正月三が日に企画した一斉投票はどの陣営も伸び悩んでいる、というのがありました。この理由としては、年末年始に忙しかったPが多かったという単純な理由であると思われます。しかし、他の陣営が伸びていない中で、先述したように昴陣営が25万票もの投票にこぎつけ、その様子が昴Pの発信力によって、お正月のTLに溢れることとなりました。一斉投票はこのように一大エンターテイメントであり、このような大逆転を見せつけることで「昴が調子よさそうだから、一票入れてみるか」といった形で浮動票の確保へつながるとわたしは考えています。私が一斉投票がそこまで伸びなかったことにたじろがなかったのは、周りの一斉投票の伸びが芳しくないことが分かっていたからですが、結果として離脱者が出てしまったことは今後の反省材料でしょう。

 一方、麗花陣営はコンベンションセンター(以下、コンベ)の雰囲気作りを徹底して保っていたことがあります。TLでは千鶴さんのコンベの様子がたびたび賑わせていましたが、「楽しいところに福は来る」とはよく言ったもので、努めて選挙とは思えない楽しさでコンベが満たされていたように思います。加えて、麗花サンタの企画で他の候補にプレゼント(=票)を送ったりと、終始自分のペースで選挙戦を繰り広げていたのではないかと窺えます。この、選挙戦を「楽しむ」といった点でうまく波に乗り切れなかったのではないかな、と考えます。私としてもコンベに対して積極的な書き込みを怠っていたため、非常に反省をしている次第です。

  • 一か月間での戦局の読み違え

 私自身も、TBの経験を踏まえ、できる限りキャスティング投票企画について学んで挑んだ今回のTCでしたが、自分自身が考えている以上にP達が選挙自体に慣れていないこと、心理的ダメージに弱いことが発覚しました。また、先述したように、私自身も三浦あずさの担当Pの数を読み違えていた、過大評価しすぎていたといった側面もあります。

三浦あずさが好きなPはたくさんいる。しかし、担当としてのPは、自分の予想している以上に少なかった。」

 自力の強さもさることながら、このような読み違えも一つの原因であろうと推察します。周りを巻き込むような企画を昇華させることができなかった。このようなボタンの掛け違いが結果として現れてしまったのではないかな、と考えます。何度も言うように、私としては企画や戦略について、間違ったことは何一つ無かったと考えています。ただ、他陣営のマーケティングがユーザーの心をつかんだという純然たる結果がそこにあるのだと考えます。…悔しいですが。

6.終わりに ~今後を見据えて~

 まさしく、今回のTCについては「ご縁がなかった」という形ではあるわけですが、正直悔しいことに変わりはありません。あずささんに役を与えてやれなかったことに関しては歯がゆさが滲みます。ただ、今回のこの長い長い一か月間を終えて、

「もっと三浦あずさを宣伝しないといけない」

ということを痛感させられました。

 私個人の見方ではありますが、「他の役であったら、役を獲得できたのか」という問いに対して、私は微妙であったと思います。今回の手応えとして痛感したのは、それよりも前の段階、三浦あずさというアイドルの周知に帰結するように感じます。AS勢では「最年長」という肩書がありましたが、シアター組の加入によって存在感が薄まってしまっている、差別化が図れないでいることは事実でしたし、だからこそ先述したようにどの役を狙っていたとしても、同じく年長組のアイドル達が立ちはだかり、周知度で秀でる他のシアター組優勢の中で戦わなければならない、今回のTCはその解決の糸口が見つからなかったとも言えるのだと思います。私としてもその正解はわかりませんでした。しかし、今回の旅人役はベターな選択であったと思いますし、旅人役の動機が弱かったのかと言われれば、総投票数から考えればそうでもなかったように、私は今でも思っています。もし、あなたが「あずさだったら絶対この役でしょ!」という意見や企画のアイデアがあったのならば、是非、コンベなどに書き込んで欲しい、発言して欲しいのです。(今回はSSRの追加というのっぴきならない事情があったため、やむなしという側面もあるでしょうが)私含め多くのあずさP、ならびに全てのPに向けて主張して欲しいのです。あなたの意見で十分、会話の雰囲気が変わりますから。

 またそのことについては、今回善戦を見せたAS勢を見ればより明らかだと思います。

 ファイナルデイ役に狙いを絞り、終始リードした状態でそのまま逃げ切った春香陣営。

 集団的な統率力には若干欠けていたものの、終始ダイマ募集のツイートの一番手にリプを送るなど個々の意志が見えた千早陣営。

 支援動画や応援イラストによって最後まで難攻不落の歌織陣営に戦いを挑み、大きくTCを盛り上げた律子陣営。

 最終日まで差を詰め、コンベンションで独特の世界を繰り広げるなど、終了直前まで粘り続けた貴音陣営、等々…

 このように独自の戦略とアピールによって、最後まで接戦に持ち込んだ陣営が多く見られました。うがった見方をすれば、シアター組の土俵でAS勢は圧倒的不利、と目される状況下で、これだけの存在感を示した各陣営を見ると、やはり日頃の広報活動であったり、選挙期間での、火事場の馬鹿力的な広報力が光っていたように思われます。だからこそ、「AS勢だったから役が取れなかった」という言い訳は通用しないわけです。

 私個人もできる限りの画像編集やダイマを行ってきました。今この文章を書いている手も疲れからか震えています。正直、個人の力としてはこれくらいが限界に近いと感じています。約一か月間、これほど自分の担当を考えた期間はあまりないと思いました。

 しかし、役を獲得することはできませんでした。反省点や完敗の要因はある程度、挙げられたのかなと思います。だからこそ、次の機会に向けて「どうすればあずさの魅力が伝わるのか、何が必要なのか」を今後とも、一あずさPとして考えていこうかと思います。

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最終投票先

 最後に、三浦あずさに一票でも投票してくださった皆さま、各種企画の立案、運営に携わっていただいた皆様、並びにとっても素敵な応援イラストを描いてくださった皆様に改めて感謝を申し上げたいと思います。特に、最終日まで精力的に活動されていたPの皆さま、本当にお疲れさまでした。そして改めて参加されたPの皆様、本当にありがとうございました。今度とも、三浦あずさをよろしくお願いいたします。

 

2018年LIVEを振り返って

お久しぶりですね。川流れです。前回横道に逸れたので、改めてアイマスの話、今年度のLIVEについて自分なりに振り返ってみようかと。

 

 先述したように今年はひどく思い入れの強い年になったのは言うまでもない。主に二つのライブについて話そう。

①初星宴舞&プロミ2018&MR【765AS】

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初星宴舞

既に一つではないことはスルー。何より今年はASに心と体をめちゃくちゃにされた年であった。(いい意味でも、悪い意味でも)もはや初星については近日中にBDも出るし、大方先述の記事で書ききったような気もするので、気になる方はそちらを参照してほしい。なんにせよ、今現在のASの底力をあるがままに見せつけられた、という言い方が正しいだろう。それは、自分がアイマスに触れた辺り、7thの横アリでのライブで見た魅力的な彼女たちを改めて2018年初頭の歌のライブという形で見たことに起因する。それは私がASの未来を確信するに十分なものであった。ASはまだまだやれる、と。

 そんな、ある意味で言えば"浮ついた"気持ちが一気に冷えたのも、プロミ2018であった。

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765ASプロミ2018

 その現状は(多少の変動はあるにせよ)変わってはいない。ステラの話は経験した人間であれば面白いと感じていたし、自分もそう感じていたのは事実であった。しかし、その面白さの共有が十分できていたのかは私はなんとも十分に感じ取ることはできなかった。決してステラであれ、CDシリーズであれ売上が芳しい状況ではないのは統計でもわかっている。「この活況は決して永遠なものではない、いつか終わりが来る」そんなことを、プロミ2018が終わった時に感じたのである。それは、私の中で今年明確に変わったと感じた"意識"のようなものであった。「常に終わりに向かう旅の中で、何かしてやれることはないのか」そんなことを再確認しつつ、動いていかないといけないと感じるのである。無論、彼女たちの活躍を全力でバックアップする意地はある。しかし、どうにもならない時がやってくる。そんな【危機感】をより自覚させてくれたのは、この年ならではないか。現在この記事を書いている今も、TC(The@ter challage)の選挙応援で四苦八苦しながらの状況である。彼女の為に全力で支える。その気持ちを再確認させてくれたのも今年のイベントであった。

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TC三浦あずさ投票企画 年始開催予定!


三浦あずさを旅人に!お願いいたします)

 無論、未来への展望もあった。MRの開催である。感想は別記事にまとめたので割愛するが、最新の技術を駆使したステージングは面白い挑戦である。あずささんの3公演を全通してみて、実際のPとの掛け合いを見ていると、新たな段階に入り始めていることが感じられたのである。どのように、これからMRが発展を見せるのか、今は3rd seasonsを待つこととしたい。

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MRあずさ回の一幕

②CG6th/西武1日目

そして欠かすことができないのはCG6thの西武1日目である。シンデレラが単独でドームライブをやるという点でもシンデレラのPにとっては感慨深いものがあるであろうが、私にとってもこの日は特別なものになった、強くそう感じるのである。

私のシンデレラの担当はご存知のように姫川友紀鷺沢文香・榊原里美である。ドーム公演で実際に歌うのは友紀のみ、しかも西武1日目しか出演がないため、並々ならぬ思いを持っていた。

彼女は「野球」という非常にわかりやすいアイコンを持ったアイドルである。そしてそのアイコンを駆使して縦横無尽の活躍をしてきた。その中で彼女の夢はドームでお客さんに楽しんでもらうライブをすることであった。一見するとこれはありきたりな夢、アイドルとしては至極普通のものに見えるかもしれない。しかし、それは彼女の「夢」に対する姿勢を見ると視点が変わってくる。最近では女子野球という形でスポットライトが当たることも多少なりとも増えたが、依然としてプロ野球と聞くと男子が中心であることに変わりはない。幼い頃、選手を夢見て取り組んだ友紀に突きつけられたのは、性別というどうしようもできない壁、夢への挫折であった。彼女のコミュで語られる過去の話は語り口調は明るめであっても、その経験が顔を覗かせる。彼女はその後野球部のマネージャーという経験を踏んで、「誰かを応援すること」へ行動を展開していく。その底なしの笑顔と明るさに私自身も救われた内の一人である。

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デレステ【with Love】コミュでの一コマ


そして、現実においても彼女の夢は着実に叶っていった。ソロ曲はもちろんのこと、昨年はパリーグとのコラボによって友紀はウグイス嬢の役割を務めた。卯月がプリントされたビールを飲みながらファイターズのスタメン発表を聞いて涙腺が緩んだのも無理はなかった。

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パリーグコラボ346デーで展示されたパネル

5thでもその活躍は輝きを見せた。彼女の参加したライブのそれぞれで彼女は様々な側面を見せてくれた。宮城での彼女本来の明るさが光る一等賞、千葉でのユニット曲の中で大人びた姿を見せたwith love、さらにアダルティさを見せてくれたTulipなど、様々な側面を見せてくれた友紀に魅了されたのも無理はない。そして、彼女の夢であるドームでのライブ、その夢が結実する瞬間をようやく迎えることができる、思いはひとしおだった。

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シンデレラ6th西武ドーム公演入り口のバナー

彼女はとにかく光を放っていた。冒頭の始球式に始まり、ソロ一曲目での一等賞。春の嵐を彷彿とさせるリーディングアイドルとして場を盛り上げていた。そして、中盤戦を終え後半戦に入るその刹那、聞き覚えのあるチャンテが流れ出したのである。彼女の二曲目、「Dear My Dreamers」であった。

この楽曲は一等賞とは違った雰囲気を持つ楽曲であった。杜野さんはユッキもカッコいい楽曲はいけるという認識で挑んだという。私もその認識を持ち、そして彼女が今まで見せてこなかった側面がこの楽曲に現れていると感じていたのである。アイドルとして応援する立場に立った彼女が困難に立ち向かう全ての者に声援を送る。それは、時代錯誤的なのかもしれない、でも彼女は叫ぶ、声の限り。彼女がこれまでのアイコンから一つ脱却する意味でもこの楽曲の持つ意味はとても大きかった。だからこそ、この夢が結実した瞬間、そのオレンジ色に染まるフィールドの中で歌う彼女の姿にただ見惚れていたのだ。ようやく、彼女の夢をほんの少しでも叶えることができた、そう感じたのである。そして、杜野さんと友紀は間奏のセリフでこういったのである。

「私の夢が叶ったから今度は皆を応援する番!」

担当アイドルからこんなことを言われてしまった。自分が考えていた理想の結末のさらに上へ越えて、まだまだ彼女は突き進んでいくのだろう。その【選手宣誓】を聞いて、彼女の担当としてまがいなりにも見届けられてよかったな、と感じることができた。そして退場の一言も、

「皆も夢叶えろよ!」

である。何と痛快なことだろうか。自分の進路で悩んでいた自分が馬鹿々々しく感じるほど彼女の言葉は勇気をくれるものであった。まだ頑張るよ、友紀。自分にはまだ叶えていない夢がある。だからこそ、お礼を言わせてほしい。こちらこそ、ありがとう。

 

 


年末のドタバタ進行の為、今まで書けていなかったCG6thの話題が多くなってしまったことはご容赦願いたい。ともあれ、2018年は私にとって非常に大きな一年となった。正直、これ以上のビッグイベントが起きるかどうかについては全くもって不明である。しかしながら、彼女たちが見せてくれた「思い」や「決意」を胸に、来年もプロデュース業に励んでいきたいと思う。来年もどうぞよろしくお願いいたします。次はTC終了あたりだと思いますのであしからず。それでは皆様、良いお年を。

 

そしてスタートラインへ【ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション】

 TVシリーズから十三年ですか。随分大人になってしまったなぁ…

毎度、川流れでございます。今回は特別編です。【ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューションを見て来たので感じたことなどをつらつらと。ネタバレしておりますのでご注意を。(まだ一回しか見てないんだけどね)

 エウレカセブンは自分が初めて二次元アニメ”を意識した作品である。今から思うと余りにも重厚なストーリーを一年間、全五十話をまだ眠い目をこすっていた朝七時に放映していたなあと思う。しかしながら、エウレカセブンが自分に与えた影響は計り知れなかった。角川系列のコミカライズ化によって後にエヴァを経由してオタクへの道を確定したり、サブカルチャーへと歓心を向けるきっかけになったり、思えば楽曲を中心としたアニメーションの見方やエウレカで見てきた登場人物の物事の考え方はひとえに楽曲のカッコよさとアニメの面白さを併存させたエウレカのスタイルに影響されたものである(と勝手に思っている)。その辺が後に注目した「東のエデン」や「アイドルマスター」の楽曲の多様性、さらには「廻るピングドラム」といったモチーフや考察するアニメへと惹かれるきっかけになったようにも。だから、今この記事を書いている手元にも『CONTINUE』でエウレカセブンが特集されたボロボロのvol.27.vol45.vol46があり、それを今懐かしく眺めている。

 エウレカセブンに惹かれたその根幹には「甘酸っぱいボーイミーツガール」という王道と「現実に起きる戦争や紛争に直面する中で人種(というか種族)が違うヒロインを受けいれることができるのか」という冷酷な現実が共存していた点にある。最初は「レントンエウレカを軸としたストーリー」というフレームでの認識が、終盤に向かうにつれて月光号の面々、子供たち、さらには世界へと破壊と再構築が繰り返される。そしてレントンたちが認識している環境もまた作られたものであったという事実。最近再放送されているTV版を見ると、当時小学生だった自分の認識もガラリと変わって見えてくる。その描かれたテーマであれ、表現手法であれ、紋切り型のアニメ―ションから脱却しようとしていた思春期の少年の心を動かすには十分であった。

無論、良い思い出ばかりでもない。多くの方が指摘している様に「ポケ虹」や「AO」など数多くの続編が発表されたものの、自分も含め評価は芳しくない。先述した『CONTINUE』のロングインタビューを通じて監督が考えていた事・やりたいことの輪郭はわかったものの、オリジナルの時に感じた熱量は感じることはできなかった。だから、20を越えて社会人になろうとする自分もまた、エウレカセブンを”少年の日の思い出”として懐かしく見ようとしていた。そんな矢先、「ハイエボ」の三部作公開が発表されたのである。情報を確認した時にはリアルに椅子から転げ落ちてしまった。

「あれだけやったのに、まだやるの!?」それが正直な感想であった。

パチンコやパチスロなど様々な形でエウレカというパッケージの”思い出”を見てきた自分にとってのエウレカ再始動は、「エヴァに感化されたか?」と訝しむ中で始まったのである。そして、ハイエボ1を見終わった後も、「これで後の二部、大丈夫か?」という気持ちはぬぐえなかった。無論、三部作であることは知っていたし、冒頭のサマーオブラブや次回予告などのシーンはあったものの、三部作の始まりとしては正直不安な出来であった。「特番見る限り、パラレルワールドっぽい?」「予告詐欺かますますエヴァじゃないか」と【ANEMONE】公開直前ですらこのありさまである。それだけハードルが高いのか低いのかも分からないまま、劇場で見てきたわけである。

閑話休題。本編の話をしましょう。口調が揃わないのは毎度の事(開き直り)

いやぁ、面白いじゃないですか、エウレカセブンの世界って。

見終わった後の率直な感想です。見事なテノヒラクルー。期待値のハードルが低かったこともありますが想像以上に自分好みだった。無論、後でも批判はしますが、ずっとエウレカセブンシリーズを(文句を言いつつも)見てきた自分にとってもえらく挑戦的な解釈をしておりハイエボ1がなぜあのような作りであったのかを(半端ながらも)理解できた。そして「エウレカセブンを作り変える!」という意思と熱量を感じることができた、と思っています。まずは面白かった点をつらつらと。

「平行移動」と「垂直移動」/ 物語構成について

 藤津亮太氏が公式サイトのコラムでも言及している様に今回のハイエボ2(であっているのか)はハイエボ1の物語構成と全く異なっている。

『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』は、“垂直移動のイメージ”で組み立てられている。

それはティザービジュアルに描かれた「上から垂直に差し込む光」や、キービジュアルの、縦の構図で扉から飛び出してくるアネモネエウレカの姿を見ただけでもよくわかる。この映画は、主人公アネモネが垂直移動によって階層構造を行き来することで物語が展開していく作品なのである。

これは前作『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』とは全く異なる語り口だ。『ハイエボリューション1』は、時間軸を前後しながらレントンの物語を語るという構成で、即ち“水平移動の映画”だった。そして、この“水平移動の映画”の“上部構造”として『アネモネ』は制作されている。前作の続き――つまり水平方向への延長線上にある作品――ではないというところに『ANEMONE』という作品の仕掛けのおもしろさがある。(公式HPコラムより抜粋)

 前作においてレントンは犬に追いかけられている十数分の間の回想として、TV版25話の辺りまでの内容が(若干の変更はありながらも)描かれている。このレントンの世界はどこまで行っても水平な存在であり、他の世界と交わることはない。レントンエウレカとの再会を待ち望んでいる。この定まった目標においてレントンの時間は進み、そんなこともつゆ知らず地球は回っているのである。これは先述したTV版においても、その認識のフレームは破壊と再構築を繰り返していくものの、時間軸や世界観はほぼ一定であり続ける。

 対して「ANEMONE」で描かれるのはTV版の世界とも、どの続編においても立場が違うようなアネモネの存在が様々な世界事象へとダイブすることで物語が進展を見せていく。実際に石井・風花・アネモネエウレカセブンへと侵入した事例はTV版のアネモネが活躍していた場面である。「レイズ・ユア・ハンド」や「スタート・イット・アップ」といった話数でのタイプ・ジ・エンドのハイライトである。しかしながらニルヴァーシュと対決するシーンで我々が知っているような結末(つまるところニルヴァーシュ側の勝利)は出てこない。必ずジエンドのアネモネ側が勝利し、レントンエウレカは救われないのである。そしてこの光景は何度も何度も繰り返される。この「ハイエボ」シリーズでの一番の冒険は「過去のシリーズ全てをIFの世界として認識し、つなげようとした」点であろう。今作における”ヒーロー”アネモネと”魔女”(ヒール)としてのエウレカ。この構図はTV版とは真逆である。しかし、AOで指摘された世界改編の可能性のように、エウレカの作品中も、いくつもの並行世界が鎮座ましましているのである。そのような世界も「あったかもしれない」こう言い切るのである。この構図は「四畳半神話大系」のストーリー形式と似たところがある。

 ”いくつもの可能性がある世界において、当事者は選択を行っていき、一つの道が生まれる。その傍らには何重もの「可能性の世界」が路傍に転がっている” 

 作中のデューイの「ゴミ掃除」という発言は、このような路傍に転がった「可能性の世界」を処理することを指している。アネモネエウレカセブンを排除しようとひたすらに勝ち続ける。その一方で、レントンが救える可能性をつぶされていくエウレカ、という従来の認識とは反転した構成となってくる。そして終盤。永遠なる並行世界を彷徨い続けたエウレカアネモネの尽力により並行世界から脱出する。その瞬間、エウレカの首輪は破壊されている。TV版や「ポケ虹」のようにエウレカにとっての首輪は彼女が背負った宿命や呪いを示してることが過去作であった。今回の場合その並行世界の”呪い”を断ち切って”未来”へ一歩を踏み出すことで首輪は破壊されたとみて間違いはないだろう。

 ここまで書いてきて本当にエヴァのQのような展開だな、と内心思ってはいるが「垂直移動」と「平行移動」という二つの観点を通じたストーリー構成が見えてきたとき、かなり野心をもって冒険をしていることが分かる。

 『ANEMONE』とついている様に、今作の中心人物はアネモネである。しかしながら、その行動原理や表情などにTV版の面影はない。今作のアネモネはしっかりと家族がいて、両親が先に(特に父親は作戦遂行中に亡くなる)旅立っている。孤児院で成長しエウレカの偽物として描かれてきた姿とは違い、抱えているもの、小清水氏の言葉を借りるならアネモネの持つ”痛み”についても違いがみられる。そして、父が紛争の当事者としてやり玉にあがり、エウレカセブン殲滅は親子としての罪滅ぼしなのかと記者に問い詰められるシーン。これは「ハイエボ1」の世界を救った英雄の子息であるレントンとも相対関係に位置づけられる。人類とエウレカセブンの弔い合戦というフレーズが作中でも出てくるが、その当事者としてアネモネは関わり、仕事を遂行していく。監督は”喪の仕事”と評した上でなぜそのようなものを描いたのかを語っている。

世の中にはなんらかの理由で親がいない子供がいますよね。死にせよ別の理由にせよ子供の前から姿を消した親はどんな気持ちだったんだろうか、ということを『ハイエボリューション』が始まる前からずっと考えていました。たとえば身近にも子供を残して亡くなった友達がいます。残された子供に、お父さんの友人だった自分がどんな言葉をかけてあげることができるのか。
結局、そこで言ってあげられるのは「君を忘れて行ってしまったわけではないよ」ということなんじゃないか。そういう思いを『ハイエボリューション』には込めたかったのですが、『1』の段階ではどうしてもそういう方向に持って行ってはくれなかった。
だから『ANEMONE』では、そこを正面から嘘をつかずにそれだけを描く事にしたんです。そして、そのアネモネの小さな喪の仕事が、宇宙規模の喪の仕事にくっついてしまう……という展開になっています。(公式HPインタビューより抜粋)

 エウレカセブンの殲滅任務を遂行していく中で、アネモネは父が作戦において亡くなってしまったことに気付く。しかしながら、AIであるドミニクの支え、そして父の最後の雄姿を見ることによって、アネモネは父が救われる”IFの可能性”と決別しそこに存在しない”未来”に向かって突き進んでいく。その手には同じく過去にとらわれたエウレカの手を握って。この構図は「バレエ・メカニック」でアネモネエウレカに背中を押してもらう構図と相反している。この構図構成こそアネモネが今作の主人公として獅子奮迅の大活躍を果たす面白さとリンクしている様に思われる。

 物語の最終盤、アネモネエウレカの行動によって異世界のゲートが開く。デューイのセリフを借りるなら「世界の主軸がこちらの世界に移る」。つまり石井・風花・アネモネがいた世界へどこかの世界が編入されていく。この編入されていく世界がどの世界軸なのか、これはイマイチ判然としない。結合後に見えた月光号の面々やチャールズ夫妻などをみるとTV版やポケ虹の世界軸ではどうやらなさそう。そして、妙に関節の長いニルバーシュが指し示す先(別宇宙なのかは分からないけど)に合図を送るレントンの姿。その格好はTV版最終話でエウレカと対面した姿である。そしてレントンは再びエウレカに逢いに行くところで物語は終わる。再度物語はエウレカレントンと会う方向へ歩き出すのである。別世界で生きる終わり方といえば特別篇の51話「ニュー・オーダー」で示された物語であるが、ようやくエウレカレントンはいくつもの世界線の流転の先に再会できる世界線へと(物理的距離はあるにせよ)辿り着いた、と読み取れる。「ニュー・オーダー」の時がまた動き出す。エウレカセブンがもう一つの「モーニング・グローリー」へと歩き出していく。果たしてどうなるのか。それは今後のお楽しみに、という具合である。

 このようにエウレカワールドを全て経験したとしてもわからないような、でもわかったような気になってますますのめり込んでしまう。そんな力がこの作品にあるような気がしている。(無論ファン贔屓の側面もあるけれど)

  •  公式が織りなす究極の「二次創作」

 では、賛否両論あるのは如何様な理由があるだろうか。SNSの意見をみると「なるほど」と思う点が色々ある。それはこの作品の構成にも関わるし、各々がエウレカセブンに求めているものによって、感想も千差万別なのである。

 つまるところ、【ANEMONE】は良くも悪くも公式の織りなす究極の二次創作だと思うのだ。

 二次創作というと公式の一次創作からファンがキャラクターを借りて物語(偽史やifなど)を作り上げるイメージがある。無論、公式が手がけているのだからオリジナルだろうとの指摘もあるだろう。しかしながら、観客の反応をみるに衝撃的な二次創作の評価に似ているように見受けられるのだ。今回の【Anemone】を「改変が過ぎる!」として地雷扱いする人、「その解釈、面白い!」として賛美の声を贈る人とまさしくそのような反応が沸き起こっている。だが、共通して言えることは「原作の世界観」を知っているからこそ反応ができるという点である。確かに初見で見ても面白いという声があるものの、果たしてこの情報量の濁流のような映画を今までのエウレカシリーズを見てきた人々(自分も含めて)理解しきることはできているのだろうか。まして初めてエウレカに触れる人々にとっていかがか。余計なお世話なような気はするもののなんとなくのアンバランスさがそこには介在しているような気がするのである。見てきたファンにおいても様々な世界戦のエウレカ愛する人々がいる中でのパラレルワールドとしての解釈はとても先鋭化していることは確かである。反発も少なくはない。「それでもエウレカを作り直す」という意思がそこには表れていることの証左でもあるのだけれど。

  • 格子点の先に見えてくる「それでも続く物語」/ おわりに

 長々と皆が知っているようなことを書いてしまったなぁとは思うもののそれだけこの作品がエウレカファンを突き動かしたのである。それだけの熱量を持った作品なのである。先述したように「ハイエボ」の物語は水平移動と垂直移動の二面性から分析ができる。「ANEMONE」による垂直移動の物語の終点は丁度想定されていたような水平移動の物語の終点と結びつく。ようやく僕らは「ハイエボ」の格子点にたどり着いたともいえるのである。しかし、その先に物語はまだあるのだ。延々とループする平行線の先、垂直移動で辿り着かない先が。「ハイエボ3」が格子点の先を紡ぐのである。レントンエウレカの再会へとつながるハッピーエンドなのか。それとも想像の付かないエンディングとなるのか。何はともあれ、物語は続いていく。その結末を待ちつつ今はこの物語に逢えたことに浸っていたい。そんな気分にさせてくれた【ANEMONE】でした。もう一回見に行こうかな。それでは。

2018/11/15

 

∬゚ヮ゚) くアイマスとさほど関係ない汐入レポート

こんにちは。日記が三日坊主を超えた川流れです。コンスタントに一歩ずつ。

さて、今回は久々のミリオン案件、ミリシタ感謝祭の会場になった横須賀芸術劇場の最寄り駅の汐入周辺について何となく書きます。発表も色々ありましたが、それは2本目の記事で書こうかと。全身脱力でお届けします。

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私の最寄りからおおよそ二時間半かかった汐入という駅。9時頃の到着でしたが日差しが弱く、また劇場が影になる部分が多いことから寒く感じました。(もっと着込むべきだったか?)その為か、ARの開始時も人はポツポツいる程度でありました。当選が絞られているかつ物販もない為、現地推しの人もまばらでした。

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この状況で時間を潰そうにも厳しい為、周辺を散策することにしました。今回のMVPとも言える場所について簡単に説明しましょう。

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まずはヴェルニー公園。近くで横須賀パン祭りとまちかどミュージックという催し物をやっていました。画像は昼間からビールを呑んでいた筆者のものですが、地ビールのドブイタハッピーは苦味が強めのビールで、直前に買ったカレーパンと一緒に平らげました。快晴の空の下、流れる音楽を聴きながら一杯いただく…日曜の昼下がりとして上々なものではありませんか!

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続いて、横須賀軍港巡り。大人1400円で横須賀の軍港を45分かけて大きく一回り。正直、艦これをざっくりとしか確認していなかった私でも聞いたことのある戦艦が数多く発見され、とても楽しめました。

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もし、もう一度横須賀芸術劇場にイベントで来ることがありましたら、この二つはマストではないでしょうか?

以上、よくわからない汐入レポートでした。

 

 

【若干ネタバレ?】初星宴舞BD発売記念ということで…

どうも、軽度のギックリ腰をやらかした川流れです。

完全にシルエットがおじいちゃん。

初星宴舞BDが 2019/1/23に発売ですってよ、奥さん!嬉しい限りですね…。初日公演後自分が泣きすぎてヤバかったり、死屍累々の束を海浜幕張に生み出したとされる伝説のライブがついに円盤に!資金繰りで首が回っていない状況でこの仕打ちとは…

 

というわけで、初星宴舞になんらかの状況の進展があったら出そうと思っていた私の初星宴舞(というかある一曲)の感想記をここで公開します。今、改めてその内容を見るといかんせん「こじらせているな…」と思わなくもないですが、大学のマス研の初会誌に載せたまんま、無修正で公開します。一人でも多くの人が初星宴舞を視聴することを願って…。

 

「隣に…」と私の結末~初星演舞感想に添えて~

 

 初星演舞のDelayLV終わりにこの文章を書き始めた。普段のライブであれば、Twitterで褒める形で大体終わらせてしまうが、今回の場合そうとも言えなくなったので、あえて記すことにする。それは、7年弱に及ぶブランクを経て“ある楽曲”が披露され、私の中で一区切りがついたからである。私はその楽曲を初めて聞いた時からその曲をライブで聴くことに心底憧れ、そのアイドルを担当しようと決意し活動を続けてきた。流れた月日はおおよそ七年。長いと見るか、短いと見るかは各々のP歴に依るであろうが私はその楽曲を担当アイドルの歌声から生で聞くのは七年間で初めてだった。すべては過去のものであり、その曲に恋慕の念を抱いてさえいた。そして、2018年、その曲は披露されようやく私の中で一区切り、というか整理がついたので言葉にしようと試みる。いかんせん右往左往しそうで心もとないが、頑張ってみたいと思う。まずは私がアイマスに出会ってから担当を決めるまでの整理をしようと思う。長文・駄文は容赦されたし。

 私がアイマスに触れたのは中学三年の頃、世間的にはSPがひと段落した当たりの頃である。当時ゲームセンターで太鼓の達人に通い詰めていた私にとって「ゲームミュージック」の欄にあった「THE IDOLM@STER」を見つけることは容易であった。当時はオタクになりたて&アイドル物は毛嫌いしていたため触れることはないだろうと思っていた。しかしその想定していたアイドルの楽曲とは程遠いカッコいい楽曲展開(「エージェント夜を往く」が一番大きく当時の難関曲を一手に担っていたリンダさんが作曲していた事を知ったのがインパクト)に次第に心惹かれるようになった。しかしながらPSPを買うお金もなかった当時の中学生は追加される楽曲に心を躍らせながらのめりこんでいったのが初めである。

 そんなアイマスの世界に足を踏み入れたのが丁度アニメ版【THE IDOLM@STER】の開始直前の2011年3月、アイマスタジオのプレ放送を聞いた当たりであった。当時は誰が何役を務めているかもわからない状態だったが、パーソナリティの二人が織りなす心地よい軽快なトークアイマスということを意識せず聞いていたように思う。(とりわけ、このラジオがアイマストークをさほどしないことで有名になっていたことは後々知ることとなる)もうこの時期にはあと一押しすれば勝手に転がり込むようなあと一歩の状態であり、アニメ化も決定していたため、プロデューサー活動を始めるのも時間の問題だった。そこで私が取り掛かった最初の問題は「誰を担当とするか」であった。アニメを見て決めようか、とも考えたが普段から優柔不断な性格の為決めることはできないであろうと考え即却下。アニメをリアルタイムで追いつつ、楽曲と歌唱で決めようと思いレンタルビデオ店に直行。小遣いで賄える限界までCDを借りて聞きまくった。そんな中、私が出会ったのが、【THE IDOLM@STER BEST OF 765+876=!!】であった。全部で三枚のこのCDシリーズでおおよそアイドル達の代表楽曲が聞けたのである。私が、その曲を聴いたのもこのCDからで、私が担当を決めたのも、その曲を恋慕しだしたのもこの時が最初、2012年の春頃、そう『隣に…』との出会いである。

 7thや8thがいけなかった関係もあり、初めてライブ参戦をしたのは2014のSSA公演【THE IDOLM@STER M@STERS OF IDOL WORLD!!2014】の事。そこで私は担当の楽曲である「ラ♡ブ♡リ」と「Mythmaker」の二曲を聞くことができたのである。じきにあの楽曲も聞くことができるであろう。私はそうたかをくくっていたのである。そうして、9thでは大阪二日目で披露されたが、この時は千早が歌唱だった為に大事には至らずに済んだ。しかし、いつまでたってもあの楽曲は披露されないまま。彼女の歌唱による披露を待ち望んだまま時は流れていった。そして、2015年の10thライブ。会場は地元の西武ドームとのこと。ついに悲願が成就される…それならばここまで待ったかいがあるというものだと思っていた。しかしそれはまだまだ道の途中でしかなかったこととなる。披露された楽曲は「嘆きのFRACTION」。確かにカッコいい楽曲ではある。しかし…といったもやもやした気持ちを抱えた。そして、765プロは実質上の一年半に及ぶ活動休止に入ってしまった。私が、もうこの楽曲を聞けないのであろうと覚悟したのもこの時期であった。

私がなぜこの楽曲に心底執着し恋慕の念を抱くまでになったのか。それは、私が三浦あずさという一人の人間をスキになる上で通ってきた、いわば“心臓”にあたる曲であったからだ。これは個人的な視点になるが、私の理想のアイドル像の一つとして「Artistとしても様々な楽曲を歌いこなしそれでいて個性的な魅力を持つIDOL」というものが、アイマスに触れていく中で次第に確立されていった。よくよく考えてみるとそれは元々アイドルの悪く言えば煮え切らない感じの歌唱に半ばいらだちにも似た感情を抱いていたのと、当時好きだった「school food punishment」の楽曲や歌唱に畏敬の念を抱いていたからかもしれない。三浦あずさというアイドルは、そのコンセプトに合致していたアイドルであった。もちろんアイドルであるため、可愛らしい楽曲も求められる。逆に歌唱力や楽曲はカッコいいものがいい。こんな一見すれば二律背反の願いを叶えてしまう、恐ろしい人物であった。前者であれば先述した「ラブリ」や「コイ・ココロ」といった形で包み込んでしまうような楽曲たち、後者であればこれも先述した「mythmaker」に「嘆きのFRACTION」といった激しい楽曲に、「隣に…」や「月のほとりで」といった“聴かせる”楽曲、と私のわがままを満たしてくれる、この点において私が彼女を担当しようと思った動機の一つである。(今振り返ってみると961プロのようではあるが)このように、担当をどういう形でプロデュースしていくかにおいてこれほど私の趣味・思考に合致したアイドルはほかにないであろう、私はそう思ったのである。そして、そのパーツとして「かわいさ・カッコよさ・圧倒的魅力」と三つに分け、その中でも「圧倒的魅力」をいわば“心臓”に位置づけてのめりこむようになったのである。この基礎付けを軸に二コマスでの「3A07」といった名作の魅力も乗算されてますますこの楽曲に対する愛情が深まっていったのは、おそらく読んでいる方もわかり得るかと思う。

そんな楽曲をライブで聞きたい。自然な発想だった。衝動のままにライブに向かった。そんな中で、腕や足といった楽曲は(自分の中では)取り戻すことができたと思っていた。しかし、“心臓”にあたるその楽曲だけは自分の中で消化されないまま、時が流れてしまった。いつの間にか「新人」のくくりであったアニマスからの11年P達も中堅を越え、もはや古参一歩手前といった時期にまでなってしまった。自分の担当Pとしての時計の針が進まないまま、時は過ぎ去っていく。やがて自分の前を走ってきたPの先輩も離脱していくのが見えた。「私は10thで燃え尽きた。やり切ったのだ」そんな声を聴いた。彼の中では完結した物語であったのだろう。悔しさが滲んだ。歯がゆかった。もどかしかった。私一人を置き去りにして、時は過ぎ去っていく。悲痛な叫びだっただろうか。シンデレラやMillionなど後輩の現場で楽しんだとしても、くすぶっていたのは事実だった。もう聞けないのだろうか。そんな日々が続いた。

プロデューサーミーティングで触れられた時、智秋さんの口から『隣に…』について語られたとき、もしかしたら、という期待も膨らんだ。いかんせんどうしようもしがたいと思うのが年齢だということは事実で、軽率に口にしてもよいのか、思考は逡巡して言うべき言葉も見つからないままだった。なにせ、一年半活動がほぼほぼなかったわけで、プロデューサーミーティングがあるだけでも喜ばしいことであった。だからこそ、「緩やかな衰退」という形でたたむことも十分選択肢としてありえたのだと思い口惜しく思っていた。しかし、今井麻美さんが最終日に「歌だけのライブがやりたい」という思いを打ち明けてくれたことで、はばからなくてもいいのかなという気持ちが芽生えた。いつか、歌だけのライブで完結する日が来るのかなと思っていたのだ。そして新CDシリーズの発表とStellaStageの発表、そして待ちに待った単独ライブの発表。もしかしたらこれで最後かもしれない。そう思いつつ当日を迎えた。

当日を迎えるにしても、私の予想はそれこそMA3(MASTER ARTIST3の楽曲)が中心になると思っていたので、一番に予習をしていたのは、当然のことながら「コイ・ココロ」であった。ライブでは初登場となるため、それこそ気分は高揚していた。久しぶりの単独公演である。私は一通りの楽曲を聞くことで年末のドタバタを乗り越えていた。前日物販の時であっても片時も離れず、楽曲を聞いていた。「人間興奮すると寝られなくなる」というのは、小学生の遠足の時のように使い古された表現であるが、まさしくあの時のASPの皆さんはそんな心持だったのではないだろうか。そんな期待と不安がないまぜになったのは、初ライブを経験した2014SSA以来だった。当日は朝から名刺交換をさせていただいた。他の現場よりも年齢層が高めであるように感じた。しかし、プロミの時よりも若い世代も増えているように見受けられた。「ミリシタからのASPです!」「シンデレラがメインですが、やっぱり本家を見たくて…」やはり久しぶりの単独ライブ。気にしていたのは後ろの世代も同じだった。それは、ASの系譜がきちんと下にも届いていることを、したたかに、しかし着実にASの興味が波紋のように広がっていることを実感できた素晴らしい空間であった。

開場の時間を迎え、自分が参加させていただいたフラスタを確認し会場内へ。自分の席はアリーナ後方で、丁度右手を見ると中川サウンドディレクターが指示を送っているのが見える席であった。ライブが始まると、そこは慣れ親しんだ、しかし懐かしい765プロの面々による「THE IDOLM@STER」が流れる。ああ、帰って来たんだ。そんな実感を体中に浴びた。そのような多幸感が、「予感」とも言うべきものに変わった最初のタイミングが、伊織の「ロイヤル・ストレートフラッシュ」であった。ぷちます楽曲の披露があることを如実に示したその楽曲は、このライブが「何を投じるか」が全く読めなくなるのに十分すぎる衝撃を与えたのである。もし、前半戦であずさのソロ楽曲が、披露「されない」場合、もしかしたら…。会場がヒートアップしていくと同時に、駆け上がる思いが「予感」となって脳天を突き刺した。無論、それまでのセットリストもえげつないことになっていた。フェアリー組が織りなす「addicted」「Day of the future」「Next Life」のソロ楽曲たち。それは、自分が初めて見た7thの光景ともフラッシュバックして、月日の経過とまたこうして見れることの素晴らしさを噛みしめることができた。「合言葉はスタートアップ!」ではレジェンドデイズが全員集合を果たしての披露。ミリオンを追っていたPを中心に感嘆の息が漏れていたことを思い出す。

後半戦も最終ブロック。星空のライティングが幻想的に映える「Light Year Song」の披露があり辺りに静けさが漂い始めたその時、「その曲」は訪れた。イントロの時点で、膝から崩れ落ちたのは後にも先にも、おそらく今後の人生でももしかしたらこの時だけだったのかもしれない。それまで幾度となくDVDで、BDで、画面越しで見ていた、聴いていたあの曲が、あの風景が今眼前に広がっている。瞳は潤み、嗚咽がこぼれる。そして、顔をあげると、そこにはスポットライトを浴びて渾身の力を込めて歌うたかはし智秋さん、そして三浦あずさがそこにいたのである。その5分間に、様々なものが走馬灯のようによぎった。初めて聞いた時の感情も。様々なあずさPの顔も。幾度となくゲーム画面で見たPVも。それは、幸福の頂点であった。そしてその走馬灯と共に、この楽曲を聞くことができる。「隣に…」は永遠の別れをテーマに据えた重厚な楽曲である。しかし最後、コーラスと同時に彼女は一歩を踏み出していく。別れてしまった「あなた」への想いを携えて。それは私の中では、私がこの曲に抱いていた恋慕の感情が、漸く巣立つ時を意味していた。歩みは遅いかもしれない。けど、着実に今ここから歩きだせる。智秋さんが最後のお辞儀で見せた涙を見て、その決意の音を私は確かに聞いたのである。私の七年越しの恋慕の感情は、今その時をもって、完結したのだ。

 

実のところ、私は初星で披露された「隣に…」の記憶はあまり残っておらず、ディレイLVを見た上で当時の思考を手繰り寄せるようにこの手記を書いた。時系列的に滅茶苦茶な気もするがご容赦いただきたい。さらに、この段落を書いているのはそのディレイLVから三か月もたった5月初めである。765ASではMRライブがスタートしていて、大好評を博している。既にライブから半年以上が経つのにこのえらく長い長文に付き合っていただき感謝の限りである。私は、この文章の前半辺りに、「緩やかな衰退」という表現でASの今後の不安を口にした。それは今後とも付き合っていく問題であろうしいつか「その時」がやってくるのだろうという点は覚悟している。しかしながら、アイドルマスターという巨大コンテンツのトップランナーとして765ASが走っているうちはまだまだ燃え尽きていられない、そうゆう風に感じるのである。まだまだ、欲望は尽きない。まだ披露されていない楽曲がある。これからの楽曲だってある。それは、「これからの未来」の話である。新たな道を模索し、常に自身の手で道を作り出していく。それは、「緩やかな衰退」とは無縁のものだ。まだまだ歩き続けたい、いや、走り続けたい。そう彼女らが思う限り私達も隣で並走していくのが一番であろう。そんな決意をさせてくれた、そして私の七年越しの恋慕を叶えてくれた初星宴舞でした。

またの機会でお会いしましょう!それでは。

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∬゚ヮ゚) っMR2ndノススメ(MR評に添えて)

どうも、MRあずさ回の翌日に財布をスられた川流れです。人生ジェットコースター。

 

閑話休題。MR2ndも千秋楽を終えたので、改めてMRの良さ・メリット、その上での課題点などを(n番煎じながら)考えてみようかと思う。…あずさ回しか行っていないので個人的に思うところしか申し上げられないし、的外れな部分も多分に含むであろうが御容赦を。(予防線を張り巡らせる)

 

MRの良さは、一つは「アイドルをより実体的に捉えることが可能になった」点がなによりもあるだろう。実際にシアターで踊る等身大のアイドルの姿を見てみると、「我々の世界にアイドルが降り立った」と見ることができる。その頂点にあるのが、主演アイドルのソロ曲・MCパートにあるのは、参加されたPの方々なら大いに頷いていただけるかと思う。

 

このMRの最大の"体験"が担当アイドルとの「会話」に詰まっている。今まで選択肢に限られた回答、身もふたもないことを言えばゲームプレイヤーとして自身を投影してきたPとしては、実際にアイドルと応対、リアルタイムで会話ができるというのは衝撃的なことであろう。上記の事実は長年765プロを追ってきたPの一つの夢の形である。終演後、指名されたPが感極まって瞳を潤ませているのを見れば、MRによって生み出された"体験"としてはこの上ないものであろう。

 

以上は、比較的長期的に追ってきた765Pのメリットである。(言うまでもない)では、他のプロダクションの人々に見にきて欲しいという点も言及しておく。それは、765プロに触れるタイミングとしてMRはとっかかりにしやすいと考えるからである。理由として、

①一日三公演、一回1時間弱の公演時間という回転率のため、どの公演でも手軽に来ることが(チケットの事情がない限り)できる

②セットリストも過去から今までの楽曲たちが並んでいて、765ASの入門として申し分ないということ

この二点が大きく挙げられる。

 

①の場合、2ndの視点で言えばあずさ回など一日しかない主演アイドルの公演はチケットが難しかったものの、比較的余裕があった公演も見受けられる。アイマスのライブ(公演)においてチケットに余裕があるものは近年ほぼほぼないと言っても過言ではない。また、その主演アイドルによって特色が色濃く現れるため、「765ASってどんな人なのだろう?」という認識でいっても十分楽しめる。

 

②について。恐らく毎シーズンごとにセットリストも変更が多少あるとはいえ、MRで披露された楽曲たちはいずれも765ASのスタンダードナンバー、いわゆる定番の人気曲が軒を連ねる。765ASをあまり知らなくても「イントロどっかで聞いたことあるなぁ…」「サビは知ってる!」ということにもなるかと思う。今まで、「765ASの楽曲はどこから手を付ければいいのか」問題や「765ASを広めたいけどどこをとっかかりにすればいいのか」問題など相互のPにおいて不全を抱えていた課題の解決策としてMRは十分一つの形ではないかと思われる。

 

無論、MRについては改善点・課題もある。その点についても指摘しておこう。まずは技術の問題である。今回、私は最後尾・中段・前列の三つの席から三公演を見たが、どの席においても、常時立体的にアイドルが見えるというわけではなかった。立体交差の場面やその時その時のダンスによって立体感が薄まる場面がある。DMMVRシアター自体を含めまだまだ実験的な部分も多く今後の技術力の進化に期待したい。そして、恐らく手が出しづらい問題の一つは「値段」である。1公演1時間弱で6000円強はなかなかに手が出しづらい。手軽に行ける公演となると、コストダウンができるのかが一つの問題であろう。(その値段に手数料で1000円強値段が上乗せされるのも原因だぞ、聞いてんのか●+!)

 

ということで、つらつらとMRの話をまとまりもなく述べた。私が一番強調したい点は、「765ASは身近な存在である」ことである。最近では765ASを"伝説"として見るPも見受けられる。それは裏を返せば、765ASを過去のものとして遠い存在に認識しているのと同義であろう。MRはそんな遠さを一気に縮めてくれる公演である。一度だけでも見に来て欲しい。一端の765ASPとして切に願っている。

ここまでお読みいただきありがとうございました!

2018/10/11 MR 3rdseason 開催を願って