川流れのあれやこれや

本人の琴線に触れたあれやこれやを長めに呟きます(大半アイマス)

そしてスタートラインへ【ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション】

 TVシリーズから十三年ですか。随分大人になってしまったなぁ…

毎度、川流れでございます。今回は特別編です。【ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューションを見て来たので感じたことなどをつらつらと。ネタバレしておりますのでご注意を。(まだ一回しか見てないんだけどね)

 エウレカセブンは自分が初めて二次元アニメ”を意識した作品である。今から思うと余りにも重厚なストーリーを一年間、全五十話をまだ眠い目をこすっていた朝七時に放映していたなあと思う。しかしながら、エウレカセブンが自分に与えた影響は計り知れなかった。角川系列のコミカライズ化によって後にエヴァを経由してオタクへの道を確定したり、サブカルチャーへと歓心を向けるきっかけになったり、思えば楽曲を中心としたアニメーションの見方やエウレカで見てきた登場人物の物事の考え方はひとえに楽曲のカッコよさとアニメの面白さを併存させたエウレカのスタイルに影響されたものである(と勝手に思っている)。その辺が後に注目した「東のエデン」や「アイドルマスター」の楽曲の多様性、さらには「廻るピングドラム」といったモチーフや考察するアニメへと惹かれるきっかけになったようにも。だから、今この記事を書いている手元にも『CONTINUE』でエウレカセブンが特集されたボロボロのvol.27.vol45.vol46があり、それを今懐かしく眺めている。

 エウレカセブンに惹かれたその根幹には「甘酸っぱいボーイミーツガール」という王道と「現実に起きる戦争や紛争に直面する中で人種(というか種族)が違うヒロインを受けいれることができるのか」という冷酷な現実が共存していた点にある。最初は「レントンエウレカを軸としたストーリー」というフレームでの認識が、終盤に向かうにつれて月光号の面々、子供たち、さらには世界へと破壊と再構築が繰り返される。そしてレントンたちが認識している環境もまた作られたものであったという事実。最近再放送されているTV版を見ると、当時小学生だった自分の認識もガラリと変わって見えてくる。その描かれたテーマであれ、表現手法であれ、紋切り型のアニメ―ションから脱却しようとしていた思春期の少年の心を動かすには十分であった。

無論、良い思い出ばかりでもない。多くの方が指摘している様に「ポケ虹」や「AO」など数多くの続編が発表されたものの、自分も含め評価は芳しくない。先述した『CONTINUE』のロングインタビューを通じて監督が考えていた事・やりたいことの輪郭はわかったものの、オリジナルの時に感じた熱量は感じることはできなかった。だから、20を越えて社会人になろうとする自分もまた、エウレカセブンを”少年の日の思い出”として懐かしく見ようとしていた。そんな矢先、「ハイエボ」の三部作公開が発表されたのである。情報を確認した時にはリアルに椅子から転げ落ちてしまった。

「あれだけやったのに、まだやるの!?」それが正直な感想であった。

パチンコやパチスロなど様々な形でエウレカというパッケージの”思い出”を見てきた自分にとってのエウレカ再始動は、「エヴァに感化されたか?」と訝しむ中で始まったのである。そして、ハイエボ1を見終わった後も、「これで後の二部、大丈夫か?」という気持ちはぬぐえなかった。無論、三部作であることは知っていたし、冒頭のサマーオブラブや次回予告などのシーンはあったものの、三部作の始まりとしては正直不安な出来であった。「特番見る限り、パラレルワールドっぽい?」「予告詐欺かますますエヴァじゃないか」と【ANEMONE】公開直前ですらこのありさまである。それだけハードルが高いのか低いのかも分からないまま、劇場で見てきたわけである。

閑話休題。本編の話をしましょう。口調が揃わないのは毎度の事(開き直り)

いやぁ、面白いじゃないですか、エウレカセブンの世界って。

見終わった後の率直な感想です。見事なテノヒラクルー。期待値のハードルが低かったこともありますが想像以上に自分好みだった。無論、後でも批判はしますが、ずっとエウレカセブンシリーズを(文句を言いつつも)見てきた自分にとってもえらく挑戦的な解釈をしておりハイエボ1がなぜあのような作りであったのかを(半端ながらも)理解できた。そして「エウレカセブンを作り変える!」という意思と熱量を感じることができた、と思っています。まずは面白かった点をつらつらと。

「平行移動」と「垂直移動」/ 物語構成について

 藤津亮太氏が公式サイトのコラムでも言及している様に今回のハイエボ2(であっているのか)はハイエボ1の物語構成と全く異なっている。

『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』は、“垂直移動のイメージ”で組み立てられている。

それはティザービジュアルに描かれた「上から垂直に差し込む光」や、キービジュアルの、縦の構図で扉から飛び出してくるアネモネエウレカの姿を見ただけでもよくわかる。この映画は、主人公アネモネが垂直移動によって階層構造を行き来することで物語が展開していく作品なのである。

これは前作『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』とは全く異なる語り口だ。『ハイエボリューション1』は、時間軸を前後しながらレントンの物語を語るという構成で、即ち“水平移動の映画”だった。そして、この“水平移動の映画”の“上部構造”として『アネモネ』は制作されている。前作の続き――つまり水平方向への延長線上にある作品――ではないというところに『ANEMONE』という作品の仕掛けのおもしろさがある。(公式HPコラムより抜粋)

 前作においてレントンは犬に追いかけられている十数分の間の回想として、TV版25話の辺りまでの内容が(若干の変更はありながらも)描かれている。このレントンの世界はどこまで行っても水平な存在であり、他の世界と交わることはない。レントンエウレカとの再会を待ち望んでいる。この定まった目標においてレントンの時間は進み、そんなこともつゆ知らず地球は回っているのである。これは先述したTV版においても、その認識のフレームは破壊と再構築を繰り返していくものの、時間軸や世界観はほぼ一定であり続ける。

 対して「ANEMONE」で描かれるのはTV版の世界とも、どの続編においても立場が違うようなアネモネの存在が様々な世界事象へとダイブすることで物語が進展を見せていく。実際に石井・風花・アネモネエウレカセブンへと侵入した事例はTV版のアネモネが活躍していた場面である。「レイズ・ユア・ハンド」や「スタート・イット・アップ」といった話数でのタイプ・ジ・エンドのハイライトである。しかしながらニルヴァーシュと対決するシーンで我々が知っているような結末(つまるところニルヴァーシュ側の勝利)は出てこない。必ずジエンドのアネモネ側が勝利し、レントンエウレカは救われないのである。そしてこの光景は何度も何度も繰り返される。この「ハイエボ」シリーズでの一番の冒険は「過去のシリーズ全てをIFの世界として認識し、つなげようとした」点であろう。今作における”ヒーロー”アネモネと”魔女”(ヒール)としてのエウレカ。この構図はTV版とは真逆である。しかし、AOで指摘された世界改編の可能性のように、エウレカの作品中も、いくつもの並行世界が鎮座ましましているのである。そのような世界も「あったかもしれない」こう言い切るのである。この構図は「四畳半神話大系」のストーリー形式と似たところがある。

 ”いくつもの可能性がある世界において、当事者は選択を行っていき、一つの道が生まれる。その傍らには何重もの「可能性の世界」が路傍に転がっている” 

 作中のデューイの「ゴミ掃除」という発言は、このような路傍に転がった「可能性の世界」を処理することを指している。アネモネエウレカセブンを排除しようとひたすらに勝ち続ける。その一方で、レントンが救える可能性をつぶされていくエウレカ、という従来の認識とは反転した構成となってくる。そして終盤。永遠なる並行世界を彷徨い続けたエウレカアネモネの尽力により並行世界から脱出する。その瞬間、エウレカの首輪は破壊されている。TV版や「ポケ虹」のようにエウレカにとっての首輪は彼女が背負った宿命や呪いを示してることが過去作であった。今回の場合その並行世界の”呪い”を断ち切って”未来”へ一歩を踏み出すことで首輪は破壊されたとみて間違いはないだろう。

 ここまで書いてきて本当にエヴァのQのような展開だな、と内心思ってはいるが「垂直移動」と「平行移動」という二つの観点を通じたストーリー構成が見えてきたとき、かなり野心をもって冒険をしていることが分かる。

 『ANEMONE』とついている様に、今作の中心人物はアネモネである。しかしながら、その行動原理や表情などにTV版の面影はない。今作のアネモネはしっかりと家族がいて、両親が先に(特に父親は作戦遂行中に亡くなる)旅立っている。孤児院で成長しエウレカの偽物として描かれてきた姿とは違い、抱えているもの、小清水氏の言葉を借りるならアネモネの持つ”痛み”についても違いがみられる。そして、父が紛争の当事者としてやり玉にあがり、エウレカセブン殲滅は親子としての罪滅ぼしなのかと記者に問い詰められるシーン。これは「ハイエボ1」の世界を救った英雄の子息であるレントンとも相対関係に位置づけられる。人類とエウレカセブンの弔い合戦というフレーズが作中でも出てくるが、その当事者としてアネモネは関わり、仕事を遂行していく。監督は”喪の仕事”と評した上でなぜそのようなものを描いたのかを語っている。

世の中にはなんらかの理由で親がいない子供がいますよね。死にせよ別の理由にせよ子供の前から姿を消した親はどんな気持ちだったんだろうか、ということを『ハイエボリューション』が始まる前からずっと考えていました。たとえば身近にも子供を残して亡くなった友達がいます。残された子供に、お父さんの友人だった自分がどんな言葉をかけてあげることができるのか。
結局、そこで言ってあげられるのは「君を忘れて行ってしまったわけではないよ」ということなんじゃないか。そういう思いを『ハイエボリューション』には込めたかったのですが、『1』の段階ではどうしてもそういう方向に持って行ってはくれなかった。
だから『ANEMONE』では、そこを正面から嘘をつかずにそれだけを描く事にしたんです。そして、そのアネモネの小さな喪の仕事が、宇宙規模の喪の仕事にくっついてしまう……という展開になっています。(公式HPインタビューより抜粋)

 エウレカセブンの殲滅任務を遂行していく中で、アネモネは父が作戦において亡くなってしまったことに気付く。しかしながら、AIであるドミニクの支え、そして父の最後の雄姿を見ることによって、アネモネは父が救われる”IFの可能性”と決別しそこに存在しない”未来”に向かって突き進んでいく。その手には同じく過去にとらわれたエウレカの手を握って。この構図は「バレエ・メカニック」でアネモネエウレカに背中を押してもらう構図と相反している。この構図構成こそアネモネが今作の主人公として獅子奮迅の大活躍を果たす面白さとリンクしている様に思われる。

 物語の最終盤、アネモネエウレカの行動によって異世界のゲートが開く。デューイのセリフを借りるなら「世界の主軸がこちらの世界に移る」。つまり石井・風花・アネモネがいた世界へどこかの世界が編入されていく。この編入されていく世界がどの世界軸なのか、これはイマイチ判然としない。結合後に見えた月光号の面々やチャールズ夫妻などをみるとTV版やポケ虹の世界軸ではどうやらなさそう。そして、妙に関節の長いニルバーシュが指し示す先(別宇宙なのかは分からないけど)に合図を送るレントンの姿。その格好はTV版最終話でエウレカと対面した姿である。そしてレントンは再びエウレカに逢いに行くところで物語は終わる。再度物語はエウレカレントンと会う方向へ歩き出すのである。別世界で生きる終わり方といえば特別篇の51話「ニュー・オーダー」で示された物語であるが、ようやくエウレカレントンはいくつもの世界線の流転の先に再会できる世界線へと(物理的距離はあるにせよ)辿り着いた、と読み取れる。「ニュー・オーダー」の時がまた動き出す。エウレカセブンがもう一つの「モーニング・グローリー」へと歩き出していく。果たしてどうなるのか。それは今後のお楽しみに、という具合である。

 このようにエウレカワールドを全て経験したとしてもわからないような、でもわかったような気になってますますのめり込んでしまう。そんな力がこの作品にあるような気がしている。(無論ファン贔屓の側面もあるけれど)

  •  公式が織りなす究極の「二次創作」

 では、賛否両論あるのは如何様な理由があるだろうか。SNSの意見をみると「なるほど」と思う点が色々ある。それはこの作品の構成にも関わるし、各々がエウレカセブンに求めているものによって、感想も千差万別なのである。

 つまるところ、【ANEMONE】は良くも悪くも公式の織りなす究極の二次創作だと思うのだ。

 二次創作というと公式の一次創作からファンがキャラクターを借りて物語(偽史やifなど)を作り上げるイメージがある。無論、公式が手がけているのだからオリジナルだろうとの指摘もあるだろう。しかしながら、観客の反応をみるに衝撃的な二次創作の評価に似ているように見受けられるのだ。今回の【Anemone】を「改変が過ぎる!」として地雷扱いする人、「その解釈、面白い!」として賛美の声を贈る人とまさしくそのような反応が沸き起こっている。だが、共通して言えることは「原作の世界観」を知っているからこそ反応ができるという点である。確かに初見で見ても面白いという声があるものの、果たしてこの情報量の濁流のような映画を今までのエウレカシリーズを見てきた人々(自分も含めて)理解しきることはできているのだろうか。まして初めてエウレカに触れる人々にとっていかがか。余計なお世話なような気はするもののなんとなくのアンバランスさがそこには介在しているような気がするのである。見てきたファンにおいても様々な世界戦のエウレカ愛する人々がいる中でのパラレルワールドとしての解釈はとても先鋭化していることは確かである。反発も少なくはない。「それでもエウレカを作り直す」という意思がそこには表れていることの証左でもあるのだけれど。

  • 格子点の先に見えてくる「それでも続く物語」/ おわりに

 長々と皆が知っているようなことを書いてしまったなぁとは思うもののそれだけこの作品がエウレカファンを突き動かしたのである。それだけの熱量を持った作品なのである。先述したように「ハイエボ」の物語は水平移動と垂直移動の二面性から分析ができる。「ANEMONE」による垂直移動の物語の終点は丁度想定されていたような水平移動の物語の終点と結びつく。ようやく僕らは「ハイエボ」の格子点にたどり着いたともいえるのである。しかし、その先に物語はまだあるのだ。延々とループする平行線の先、垂直移動で辿り着かない先が。「ハイエボ3」が格子点の先を紡ぐのである。レントンエウレカの再会へとつながるハッピーエンドなのか。それとも想像の付かないエンディングとなるのか。何はともあれ、物語は続いていく。その結末を待ちつつ今はこの物語に逢えたことに浸っていたい。そんな気分にさせてくれた【ANEMONE】でした。もう一回見に行こうかな。それでは。

2018/11/15